第三章(その1) 机上の事 夏
                     

         

 シューベルトが死したのは紛れもなく三十一歳だった。僕は今三十歳で複雑な心持ち

ではあるけれども何か人生の有るがままの形が見えて来そうな気がして居る。窓の中の

竹薮から聴こえるあの美しいシューベルトの音楽が僕の人生の切れ端かも知れぬ。

 今ふと思い付いたのだが、この書き物の最後のピリオドは一体僕の何に値するのだろ

う。

 「出来事」の無い生の罪と罰、僕はそこから旅をして来たのだ。

 シューベルトの足音は一旦そこで止まった。彼の歌はそこに僕の音楽を呼び起こし乍

ら風景のように広がり懐かしい場所と成った。僕はもう一度その懐かしい場所へ戻って

、最も奇麗な歌の切れ端を捜さねばならぬ。

 旅人よ、貴方の持ち物の総てを見せてはくれまいか。僕はそれが見たいのだ。もしか

したらその歌の切れ端こそが、僕の確信し得た人間の言語ではあるまいか。

 言葉に命を懸けて居るとは言え、僕は未だ言葉というものの形を知らぬ。だからシュ

ーベルトよ教えてくれ。今知りたいのだ。

 美と観念と音楽と、これ等形無きものの中に在って言葉とは一体どんな意味を秘めて

いるのだろうか。しかし僕等人間の言葉も又無形なのだろうか。無形なる言葉が存在す

るとしたら、それは数多の旋律の下に眠っている巨大な詩魂である。シューベルトとい

う僕の親しい友達は、そういう巨大な詩魂を自らのメロディーを以て砕き僕等の前に散

りばめてくれた。

 七色の宝石を加工するように彼は沢山の歌を遺したのである。その数々の歌の中に僕

の探し求めている言葉が必ず在る筈だ。無形なる言葉とは有形の文字とは全く縁遠い透

明の肉声だと言えるだろう。 今、背後でカーテンと戯れている謎の声が言葉を歌い始

めた時、歌人の持ち物は初めて時間の大気圏を飛び越えるのである。時間の大気圏を僕

等は恐れてばかり居るけれどもシューベルトはそこで歌人の持ち物を極めていたのだっ

た。

 歌人の持ち物で思い出したがそれは僕の最も愛するシューベルト歌曲の一つであり、

或る意味でショッキングな歌曲の題名でもあった。

 ディートリヒ・フィッシャ=ディスカウがあの大ピアニスト、スヴィアトスラフ・リ

ヒテルの伴奏で歌ったライヴレコードを聴いた直後、僕のセパレートタイプの両スピー

カーにF=ディスカウとリヒテルの姿がはっきりと浮かんだのである。

 以前からF=ディスカウが好きで彼のディスクを全部コレクションしようと思って居

た矢先に、僕は何と不思議な程明快な幻想を観た事だろう。そして「歌人の持物」の強

烈なピアノパートが背骨から僕の外界へ一気に流れ出るのを感じた。それから一刻F=

ディスカウはシューベルトの唯一の持ち物について語ってくれた。

 僕にベートーヴェンよりも激しくマーラーよりも凄まじいシューベルト像を叩き込ん

だのは、クレーメルでもポリーニでもない。F=ディスカウである。

 比喩と解釈と幻想とF=ディスカウはシューベルトの歌曲にその三つのライトを当て

乍ら、これを「出来事」として世に送り出した大思想家であり偉大なバリトン歌手であ

る。「出来事」としてシューベルトの歌曲が、僕の日常生活の中に流れ込んだのもF=

ディスカウの「歌人の持物」の所為だと言えるだろう。

 「歌人の持物」それが僕には、凄まじい言葉に思われた。この小さな歌曲が、時間の

大気圏のヴェールであった。

 時間が何処から何処まで流れて行こうとしているのか解らぬけれども、何だかそこで

一旦休んでいる様でもあった。F=ディスカウの声と言葉とが或る時間を空間に持ち出

し、そこにシューベルトという歴史の一部が呼び起こされたのだとしたらどうだろう。

 時間は恐らくF=ディスカウの精神の上に止まり、彼の肉声は歌人の持ち物としての

言葉を美しい比喩と解釈と幻想とによって創造するのだろう。そうしてシューベルトの

砕いた詩魂はシューベルトという詩魂と成って、この部屋を訪ねるのである。「出来事

」としてのシューベルトの歌曲は僕の、主観的時間の中心を何時も流れるように成った

のである。

 以来F=ディスカウとリヒテルとの一枚のライヴレコードは僕の空間の宝石箱であっ

た。僕の空間には無形なる言葉に就いての思考の断章が転がってはいたが、他には何も

無かった。ただ声に成らぬ声が飛び回っているばかりだった。しかしF=ディスカウの

バリトンから、僕は自分の声を想像する事が出来たのである。

 自分の声を全く持たぬまま今まで生きて居た事が突然不思議に感じられた。その時咄

嗟に声が欲しいと思った。声が頭の中で一杯に広がりやがて枯れ葉のように沈んで行っ

た。僕の声はF=ディスカウによって声として認められたという気がする。

 失われた声では無く声が初めて僕の中に誕生した瞬間だった。例え枯れ葉のように沈

んだにせよ、僕は自分の声をそれだと認める事が出来たのだった。

 声、その喜びと哀しみを認識したいと僕は考えた。否、願ったのである。

 声の喜びと哀しみとは、歴史の表現し続けた一つの方法ではあるまいか。人は声を以

て己の祈りを歌い乍ら知ったのである。正しく声が祈りという目的を以て、歌と成り時

代の先端に言葉を置いたのだろう。

 言葉は人間の知恵で在り表現の始まりでも在ったのだろう。表現への憧れは歴史を造

りその風景を「出来事」で満たし尽くしたのかも知れぬ。

 したがってシューベルトは時代の先端から、言葉を持ち出しせっせと磨いたのだった

。何か大きな目的の為のマスターベーションのような音楽がシューベルトの歌曲なので

ある。

 僕がF=ディスカウのバリトンでもって、自分の声を見出したようにシューベルトも

又自らの歌曲によって偉大なる歴史の詩魂を探し求めていたのである。確かに彼は一度

巨大な詩魂を砕いて仕舞ったが、その飛び散った欠片を素早く拾ったのも彼だった。

 詩魂の欠片はシューベルトの胸のポケットで言葉という新たな知恵が与えられ哀しい

旋律の流れに添って五線譜に浮かび上がるのである。更に彼は己の最も親しかった哀し

みという思い出を表現しようと、声の瑞々しい響きに助けを求める。

 言葉を祈りにまで追込む人間の肉声がシューベルトの望む響きであった。

 シューベルトの哀しみとは時間の流れが突然消えて了ってから静かに溢れ出る涙のデ

ィスタンスなのだろう。彼の有節歌曲はそのディスタンスへ向けられて創られたのであ

る。

 僕の哀しみもそういう涙に似て居る。

 以前にも書いたが僕にとってF=ディスカウとの出会いがそのまま、シューベルトと

の出会いと成った事は事実なのだけれどももしかしたらば生まれる前にも会って居るの

かも知れぬ。最近僕は何故か、そんな気がしてならぬのである。

 果たしてこの暑い夏は何処から来るのだろう。この淋しい竹薮の呼吸は、このカレン

ダーの儚い数字を追い掛け乍ら戸惑う虚無感は、この僕の心の声は何処から来るのだろ

う。無形なる言葉よ君等もそうだったか。早く応えてくれ。僕はもう直ぐ三十一歳に成

る。シューベルトの死した三十一歳に成る。

 僕はこの書き物を別段遺書の積もりで書いては居ないが、それでも時間という奴は冷

酷に僕の肉体を通り過ぎて行く。絶え間なく通り過ぎる時間は、僕の肉体の内部からシ

ューベルトという鏡を探し出そうとしている。


第三章 その1終了

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