比喩か夢想か、僕は本当にお前を恋人だったと信じて良いのだろうか。優しく僕の汗
を拭いてくれたお前の小さな手、キルケゴールの宗教観に就いて何度も僕に尋ねたお前
の真剣な目。恐らくマーラーの第九ーSymphonieの一部に過ぎ無かったのだろう。
マーラーの第九ーSymphonieは僕の二十二歳の記憶に、そんな恋人という名の「出来
事」を残し得る程美的であった。そうそれで良い、恋人とは比喩でも夢想でも在るまい
。あのアダージョの下に沈んで仕舞った青春の偶像なのだろう。
マーラーが多分教えてくれた情熱の切れ端だったかも知れぬ。
彼女が今何処で暮らしているのだか、全く知らぬけれども[知的]生活という言葉に
段々社会が反抗を抱くように成った頃彼女はこの部屋から遠ざかって行った。
以前彼女の事を書いて一冊の著作を出版したが、それは飽くまで僕の一つの事件であ
った。その出版の時に友人から貰ったのが、例の三人のピエロの絵だった。
僕はすでに二十七歳に成って居た。
マーラーの第九ーSymphonieは相変わらず僕の耳元に在ったけれども恋人という名の
「出来事」はそのアダージョの中に薄れていた。
二十二歳から二十七歳の間僕は、マーラーの小宇宙の中で暮らして居たのだった。そ
こはあたかも彼の複雑な音楽で一杯だったが、第二ーSymphonieの中の不思議な華も一
杯であった。
「出来事」が人生の重要なモチーフに成らずに、過去のファンタジーや未来への言の
葉だけが彼の人生には必要で有りそこでは総てが人間の声の如く神聖に響いていた。そ
んなマーラーの肉声が自分の歌のように思われた。比喩と解釈と幻想とを、マーラーは
如何にも哲学的な人生として思い出し乍ら思考していた気がする。僕の比喩と解釈と幻
想と、それがこの五つの年に出来上がったと言って良いだろう。つまり、第九ーSymph
onieのアダージョが僕の思い出の宝箱なのである。
ヴァイオリンの合奏が比喩に口火を付けて耳の奥を滑りやがてそれを微かに解するよ
うに数多の「出来事」が回想され乍ら、音楽が飛び散ろうとする。飛び散ろうとする瞬
間に音楽はそこで人間の故郷を知るのである。故郷へそして、思い出へ第九ーSymphon
ieは自ら答えを求めてマーラーの人生の終末を飾る。
比喩と解釈と幻想とそれがマーラーに寄せられた「出来事」の総てであったのではあ
るまいか。或いは僕の人生もこの三つの華から成り立って居るのだろうか。
初恋も恋人も、その戸惑いも僕の思考の道標だったかも知れぬ。しかし僕は何も信じ
ては居なかった。ただ当時は電動車椅子で、毎日散歩に出て居たからその度にふと頭に
浮かぶ彼女の顔を信じて居たいと考えた。けれども実を言えばその顔は初恋の女の顔な
のだか、伝説の女の顔なのだかはっきりとは今でも判らぬのである。
伝説の女とはマーラーのアダージョの中に育まれていた僕のヘレナだった。
それにしても僕は何時も不思議に思うのだが何故人はその思い出の中に一つの顔を想
い描くのだろう。僕の背後にも或る一つの誰のものでもない顔が在るけれどもそれは何
時何処で僕の記憶に張り付いたのだろう。
電動車椅子で散歩する時僕は決まって行くのが境谷公園だが、そこに小高いこんもり
とした場所が有る。
畳四畳程の円の真中に落書だらけのテーブルが有り、僕が一休みする絶好の場所であ
った。そのテーブルの上の蔦や枯れ葉を見乍ら一つの顔を想像する。
蔦や枯れ葉は次第に僕の背後に在る不思議な顔を写し出す。比喩と解釈と幻想とが記
憶を巡り、日常生活の中から浮かび上がらせた一つの顔は一体僕に何を語りたいのだろ
う。やはりあの女が引き出した僕の中の、永遠にして女性なるものの顔だったのだろう
か。
永遠にして女性なるものとは僕の比喩と解釈と幻想との形なのだろう。日常生活を最
も離れて居乍らも、それに一番近い所で照らし出された願いの形であったと言って良い。
願いの形、美への要求を僕はあの公園で見付けたのだった。
記憶が美のエネルギーを欲すると美は必ず応えるものである。それが比喩と解釈と幻
想とを呼び返し、又エネルギーと成る。更に思考が願いを形へと置き換えねばならぬ。
マーラーの第九ーSymphonieは人生がそのままの思考する形で在りアダージョは彼の
生への愛撫だと言える。
言い換えれば、生が比喩と解釈と幻想とを以てマーラーを愛したのである。
公園のテーブルの上にちらかっていた淋しい蔦や枯れ葉が、僕には人生に思えてなら
ぬ。そういうマーラーの生き様が僕の青春の大切な墓標に成ったのだ。
それは思考が願いを形へと置き換えようとする神秘的な生き様であった。紛れもなく
生きて悩んだマーラーの第九ーSymphonieは彼の、美しい比喩と解釈と幻想との墓標な
のである。
比喩と解釈と幻想と、僕にもそれしか無いような気がして居た。思考が願いを形へと
置き換える事を僕の人生は始めから知っていたのではあるまいか。
我が青春の墓標はその願いに生まれその距離の上で浮かんでいる一つの美しい故郷な
のだろう。 すでに置き換えられた願いは比喩と解釈と幻想とを経た「出来事」で在り
表現なのだろう。表現、その美しい故郷から僕の耳にマーラーは第九ーSymphonieとい
う別個の記憶をあたかも僕の人生のように贈り届けた日々。確かにそれは僕の暖かな
「出来事」だけれども、全ゆる青春の疑惑に苛まれた歳月でもあった。
公園のテーブルの上の淋しい蔦と枯れ葉と、僕は何だかこれ等の物にも「出来事」は
起こっている気がする。
「出来事」とは比喩と解釈と幻想との中に包まれた断章歌であってそれ等の歌が形と
成り何物かの願いを満たすのである。僕等人間から遥か離れた場所に、思考の大宇宙が
在りそこから断章歌が流れて来る。僕等の記憶に流れて来る。
蔦も枯れ葉も人も比喩と解釈と幻想とを願う権利は在る筈である。
願いが形へと変化し乍ら僕は三十歳に成った。
比喩と解釈と幻想と僕はもしかしたらばこの得体の知れぬエネルギーに育てられたの
かも知れぬ。今こうして机に向かって居ると、そんな結論を僕の頭は弾き出す。
真夜中ではあるが僕の頭の上に、二個の電灯が記憶を照らし出している。何物かが机
の上で影絵のように動き出す。あの女の顔はもう見えぬ。しかしウェルテルではないが
彼女の影絵が通り過ぎるのを今微かに感じて居る。
比喩と解釈と幻想とが交じり合い乍ら、その不思議な影絵をゆっくりと消そうとして
いる。マーラーの第九ーSymphonieのフィナーレである。
何時か書いたが僕には、この三十歳という年齢が興味深い。
総ての「出来事」が透明に見える。透明な「出来事」これが最も愛すべき青春だった
のだろう。多分時間の流れも又、比喩と解釈と幻想とに他なるまい。興味深い三十歳に
僕はやはりこの書き物を遺したいのだ。
竹薮から何かが聞こえる。
背中の窓のレースのカーテンの揺れるのを感じつつ、耳を澄ませると竹の葉の周りで
ざわめいている断章歌の戯れが聴こえる。恐らくは願いの声だ。
比喩と解釈と幻想と凡てのものを支配しているとしたら、この小さく囁く人の声はど
うだろう。僕の三十歳の記念の書き物の上を、静かに通り過ぎる声はどうだろう。
シューベルトの運んだ「出来事」、そうだ。渇いてはいるけれども、決して比喩と解
釈と幻想との手を借りぬが故にシューベルトなのである。
僕には時間が無い。
第二章おわり