先日国立美術館でレンブラント展を見て来たが、正しくゴッホの云う通りそこには
[自然以上のもの]が在った。
マニエリスム等考えも及ばぬ所から、レンブラントの自画像は且つ真にマニエリスム的であった。「それは呈示である」レンブラントの自画像を見たゴッホの言葉だが僕もそんな気がして居た。
車椅子からの低い視線でもって僕は人の頭の間に有る数々の顔を見た。
血圧が高くて丁度、その日倒れた母の具合を気に掛け乍ら僕は親不幸にも最終日の展覧会に出て来たのだった。何とも奇妙な思いで、画家二十七歳の自画像の前に止まった時僕の後頭部から耳に掛けてやはりシューベルトの音楽が聴こえた。
ゴッホの云う自然以上のものが僕の背後で囁いたと思うとそれは次第に僕の身体全体に巻き付いて来る。「未完成交響曲」の冒頭だったけれども孤立した生命という歴史からの呈示ではあるまいか。 僕等人間を個人としてでは無く、一個の時代として考えたマニエリスム的な呈示、それは飽くまで一つの孤立した過去からの要求ではある。
二十七歳のレンブラントからなのだかシューベルトからなのだか判らぬが、この画家の二十七歳がシューベルトの顔に違いないだろう。
若さに溢れ乍らも、鏡の中の顔と対話を交わすレンブラント。
未知なる過去の肖像画を描き乍ら、美しい「出来事」を旅したシューベルト。
ここで色彩の帝王ヴァン・ゴッホの言葉を信じよう。
[レンブラントは自然以上でありそれは一つの呈示である]そしてそのゴッホの深刻な溜息をシューベルトに当て嵌めたいのである。人間のカオスの流れが大自然を超越するなら、シューベルトの呈示した音楽は何処までも美しい筈である。文字通り孤立した過去は未知なる個々の小さな歴史の切れ端だと言えるだろう。
大自然を超越したメロディーがオーボエとクラリネットの音色に見出されると間もなく、幻想が肉体を麻痺させるように僕等を包む。
二十七歳のレンブラントの初々しく誇らしげな髭と唇からそのオーボエとクラリネットの美しい音は聴こえてはいるものの僕等の背後には何か不安な混沌が在りゆっくりと僕等の上に陰を落としている。
「未完成交響曲」、もしかしたらば、シューベルトはこのーSymphonieの中に耳という人間の神秘を仕掛けたとは言えぬだろうか。
美しいオーボエとクラリネットを追い掛けるような野生的な弦楽器の哀しいアレグロ・モデラートの中の影法師がシューベルトの木霊かも知れぬ。木霊は彼の心臓から弾き出され歌の切れ端と成って僕等の青春に飾られたのである。
事件記者シューベルトはつまり、僕等の青春の同居者だとも言える。しかし彼は僕等の同居者であると同時に、僕等の言葉の伝導者でも在った。
「未完成交響曲」は確かにロマンチシズムを目一杯含んではいるけれども、あえかな初恋の爽やかさ等殆ど無い。それは限りなくデモーニッシュな一つの呈示だ。シューベルトの祈りに近く喘ぐような生からの試みに違いあるまい。
僕は「未完成交響曲」を聴く時何時も、この部屋の窓から見える竹薮を思い出す。そして更に、あの青々とした竹薮の真ん中でシューベルトが散歩しているのを感じる。両手を後ろで組み乍ら早足に歩くと、シューベルトは自分の足音にさえ喜びと哀しみとを眺めている。
彼が歩く度に喜びが一つ哀しみが三つ、竹の間から転がって来る。「未完成交響曲」がこの世のものならぬ美を讃えつつ僕の窓を照らしている。この世のものならぬ美が、あたかも人間の耳に一つの呈示として遺し得たのは完全に熟し切った人生への愛のように思われる。しかしシューベルトの人生は熟し切ってはいても決して、瑞々しい生という思い出を忘れてはいない。
竹薮の渇いた青さを潜り抜けてチェロとコントラバスが僕の背中を軽く打つ。自分の足音にさえ喜びと哀しみとを眺めたシューベルトのそれが生への解釈である。
解釈するという事、シューベルトは命を歌って解釈し自然以上の自然として歩いて行く。
第一章 終了