第一章(その2)

 [シューベルトの歌は青春の息吹に溢れている]と誰もが思い込んでいるがそれは飽くまできれい事に過ぎぬ。「さすらい人の夜の歌」を聴き乍ら僕は自分の自画像を想像した。記憶の奥から込み上げて来る熱いもので、それはゆっくりと目の辺りから出来上がった。メロディーという肉体を持った僕の自画像はやはりシーレにも似て居た。

 考えてみれば僕は現在、シーレとシューベルトとの生の境目に生きて居るような気がする。年齢的な事を余り書くと僕らしくないかも知れぬが年齢というものも又、或る奇妙な道標なのだろう。

 二十八歳で死したシーレが辿り着けずシューベルトがそこで歌の切れ端を見失った場所で今、僕が立ち尽くして居る。

 僕の自画像の、輪郭が消えそうで消えぬ線を繋ぎ乍ら顎の筋肉をしっかりと支えている。消えそうで消えぬ線は「さすらい人の夜の歌」を今にも歌い出しそうである。

 僕は以来その顎の筋肉に例え様のない悲哀を感じるように成って居た。ソクラテスでもなくガンジーでもない線が力強い言葉を話してくれそうであった。それから僕は数多のシューベルトの小唄を愛した。数多の小唄はそんな自画像の周りに溢れていた。

 こうして原稿を書いて居る内にも次第にシューベルトの死した年齢に近付いて行くのだけれども僕の存在そのものは一体年を取るのだろうか。

 僕の肉体、僕の心、僕の自画像、君等の年齢はどう成るのだ。

 人生が在って時間は恐怖のリズムを刻み僕等の足元を掻い潜ってふと気付くと僕等はその大波を被って居る。すなわちシューベルトのメロディーは時間の流れに添って記された道標に違いあるまい。彼は時間の大波の上にひょっこりと乗り、自画像たる歌の切れ端を青春への郷愁として僕等の個々の風景に投げ込んだと言えるだろう。

 僕は何時も夜、原稿を書いて居るのだがシューベルトはどうだったのだろうか。それは下らぬ事だが夜とは実に美しい風景である。

 僕は身体が不自由だからこの狭い部屋さえ動き回れぬけれども確かに窓の外は夜である。今僕は夜という風景の中に何かを描こうとして居る。

 何を、一体僕は何を書こうとして居たのだろう。

 思い出してみる。

 無限にして張よかな夜よ僕は僕の青春に自画像を懸けては来たが全ては「出来事」の壁に遮られて仕舞った。したがって僕の周りには事件等何も起こらなかった。凡ての事件はこの部屋の外で起こりそのまま僕の知らぬ所に流れて行った。

 しかし心の中には、毎夜何かが起こっていた。それが僕の経験し得た心の事件である。記憶されたそれ等の事件は又、夜毎に僕の頬を掠めてシューベルトを呼んで来る。メロディーという肉体と声と言葉と、シューベルトは原稿用紙の上に置いて行くのである。

 そういう原稿の上を僕は散歩する。

 消えそうで消えぬ線に委ねられた僕の自画像に付いて行くのだ。憧れと倦怠とが重なり合った風景に必ず僕の言葉が隠れている。永遠にして最も自然なる音楽の形がこの升

目の間に生きているのかも知れぬ。

 自然なる音楽とはシューベルトよ貴方のそして僕の過去に散らばった事件の事ではあるまいか。 過去に散らばった事件は、僕にとってこの部屋の隅々から聞こえて来る声だと言って良い。こうやって真夜中、一人机に向かって居るとそれ等の声が僕を取り囲んで仕舞う。

 歌という霊なのだろうか。

 僕は霊達の中で少しの間、あやされて居るような気がする。少しの間なのか長い間なのか判らぬけれども、或る種の小宇宙がそこに存在する事は間違いない。

 そら又聞こえて来た。過去に飛び散った生命力の無数の欠片が、ゆっくりと一つに成ろうとして互いに呼び合っているのだろう。

 深い森を掻き分け乍ら樹々の間を跳ね回る声、シューベルト貴方が呼び起こしたのだった。

 流離人に成った事件記者が、この部屋で起こした事件とは一つの歌の切れ端から無数の欠片を呼び返す事であった。呼び返された欠片はそのまま、この静かな部屋に住み付いた。だから、夜毎にそんな欠片と話して居るのである。

 何も映ってはいないテレビの画面に僕の顔が沈んだように見えると、何時も耳には

「糸を紡ぐグレートヒュン」が聴こえる。

 微かな小さな声だがそれは確かにエディット・マティスのソプラノである。そのスイスの山々を駆け抜けるような美しく澄み切ったリリックソプラノは常に僕の心の事件であったと言えるだろう。人の声の汚れた部分を削ぎ落とした時それは、真の言葉に紛れもなく近付いて行くのである。

 僕が初めてマティスのソプラノを聴いたのはバースディプレゼントとして、母から貰ったモーツァルトアルバムであった。

 無論かなり以前だからアナログレコードだったが、その中で一曲だけ彼女の歌が有った。

 「すみれ」モーツァルトの小さなバラード作品をマティスの声は少女の魔性たっぷりに歌い終わると、僕の中の或る空虚な部分が突然満たされた。異性への好奇心といったものがマティスのソプラノによって、僕の中に目覚めたのである。

 僕という人間はそれから、声と言葉に対して異常なまでに関心を持つように成った。

 少女の白く細い足に踏まれて死んで了う菫の、儚い想いをマティスのソプラノで聴いて以来僕の声と言葉と「出来事」への旅が始まったのである。もしかしたらばシューベルトが僕の最後の流離かも知れぬ。だとすれば、マティス特有の澄み切ったソプラノで聴こえた「糸を紡ぐグレートヒュン」は恐らく僕への誘いではあるまいか。ブラウン管に映じた僕の裸の顔に歌の霊魂達が挨拶をしているのだろう。

 三十歳に成ったばかりのこの僕の部屋には一体どれ程の友達が住んでいるのだろう。

道化師達よ君等も知らぬと云うのか。しかし人間の肉声によってシューベルトはそんな霊達のノスタルジアをこの部屋のあちこちに忍ばせていたのである。

 感謝するよ、シューベルト。

 そう僕は人の声と言葉とをこの上なく愛しては居るが一人の言語障害者でもある。それ故に、声とその形である言葉とを愛して居るのだろうか。否である。

 確かにその影響はないとは言わぬけれども、僕が愛するのは日常生活とは全く無縁の歴史からの歌の切れ端なのである。

 それは数多の星々よりも美しい。そうして無形なる音楽だけがその歌の切れ端を運ぶ小舟なのである。シューベルトもその筈だった。

 数多の星々よりも美しく流れて来る歌の切れ端がこの部屋に集まり、僕に語り掛けようとする時凡てから僕の耳は遠ざかって仕舞う。

 そこから耳という人間の神秘が恐らく始まるのである。

 一瞬の内に僕は僕の風景を見渡す事も出来る。シルスマリーアの静かな一室で頬杖を付いていたニーチェも多分、ヴァーグナーの神秘の中に音楽の小舟を見たのだろうか。


その2 ここまで

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