出来事に捧ぐ
晩春フランツ・ペーター・シューベルトに出会った時もやはりこんな静かな夜であった。僕は友人に貰った五十号の油絵と向かい合い乍ら、マルセル・プルーストを読み耽って居た。
友人の絵は僕が京都芸大に通って居た頃に出版祝いとして贈られたのだった。
それは過去と現在そして未来の象徴たる三人の女性のそれぞれの手に、白い鳩が止まっているという明快な構図の美しい絵である。僕は以前からこの絵が気に入って居たので、友人から貰った時はかなり喜んだ事を覚えて居る。
全体がブルー係った緑で統一されたキャンバスに浮かび上がった三人の道化師(女性)達が、掛け替えの無い僕の友達に思われた。
掛け替えの無い僕の友達は毎日、僕の顔を見る度に表情を変え乍ら鳩に何かを喋っていた。過去現在そして未来というそれぞれの立場で僕の噂をしているのかも知れぬ。
「失われし時を求めて」この膨大な物語のプロローグを僕は目の前で観て居るのだろうか。
そんな憂鬱な僕の耳に、突然聴こえた音楽はあたかも道化師の背後から鳴った様であった。ブルー係った霧の奥からそれは近付いては遠ざかった。僕は不思議に思ったけれども、何故か自然なようにも感じた。それが「幻想曲ハ長調」であった。
机の上でヴァイオリンの鋭角的な曲芸を繰り返し乍ら、僕の原稿を飛び回ったが直ぐに消えて仕舞った。そのヴァイオリンの愛しい音色が僕に小舟を与えたのである。
道化師達が一体何を考えているのか、僕はふと耳という物の神秘に気付いた。あの微かな話し声が全部聞きたいと思った。
僕の耳は以来微かに聞こえる音に対して敏感に成ったのである。だから何時も、何かが僕の耳には聞こえて居た。
そんな耳の神秘がこの一枚の絵から始まったのである。シューベルトの快活な「ファンタジア」が僕の神秘への案内だったのかも知れぬ。
そうだ美しい道化師達、僕は君達の謎に興味がある。そうして君達のそれぞれの鳩に僕の真実を話して置きたいのだ。耳という神秘は人間が個々の生命を宿す以前から地球上のカオスで青く流れる河の如く生きていたとは言えぬだろうか。
青く流れる細流の音が恐らく耳に付いたまま人間はこの世に生まれると、その細流を思い出そうとする。思い出そうとする歌はやがて、僕等の時間の仮面と熱い頬との間を滑って道化師の化粧と成るのである。
シューベルトという歌人は、そういう歌を記録した一人の事件記者ではあるまいか。
僕にはそう思えてならぬのである。
哀しみの化粧を彼は次々に青い霧の中に記録し乍ら、僕等の耳の事を考えていたと言える。僕等の耳、それが河を懐かしんで居るという事を彼は知っていた。
可笑しな事だがシューベルトという人は過去も未来も信じてはいなかったから人生という穴倉で僕等を見詰める事も出来た筈である。つまり過去にも未来にも無い心の事件を手持ちの小さなノートにさらさらと写し撮り、それを小舟にして音楽の上に浮かべたのがシューベルトである。
人間の耳の神秘に、シューベルトは小さな歌の切れ端を、そっと浮かべるとそこから何時の間にか又神秘が生まれる。
神秘という小舟は息苦しい動乱の時代の上を流れて行く。
「幻想曲ハ長調」の無邪気さと明るさとそして哀しさとそれが解け合った歌の切れ端はあくまで時代の重たい事件の上で流れて行くのである。シューベルトの歌の切れ端とは彼の手持ちのノートから溢れた僕等の要求する個々の心の声ではあるまいか。
僕は最近、シューベルトの歌の切れ端を何故か断片的に思い出すのだけれども果たして特別な意味でも在るのだろうか。
思えば今僕の前に掛かっている油絵にもそんなメロディーが潜んでいるように感じられてならぬ。それとて意味は在る筈である。
僕は確かにこのブルーの霧の中から、シューベルトの「ファンタジア」を聴いたのだった。もしかしたらば三人のピエロの陰に隠れ乍ら、誰かがヴァイオリンを弾いている
のかも知れぬ。メニューヒン、スターン、否クレーメルである。
「幻想曲ハ長調」と言えば僕の頭にはあのソビエト人しか考えられぬのである。僕が最初にヴァイオリンの音色を聞いたのがやはりギドン・クレーメルであった。
数年前だったか、或る音楽雑誌のアンケートで[最も嫌いなタイプの演奏家]のトップに挙がっていたのもクレーメルだった。成程風貌から言えぱ、唇の厚いのが妙に目立つ男である。
しかし一旦ヴァイオリンを弾き出すと、醜い唇等見えぬのである。身体全体が歌うという一つの謎を会得したように震える。
真の歌の切れ端を追い掛けようとして音楽の波の上を飛び跳ねるピノキオであった。
時代、その大きな鯨の胃袋の中でクレーメルというピノキオはヴァイオリンの音と共に生きていたと言えるだろう。
彼も恐らくヴァイオリンの形をした小舟を漕ぎ、歌の切れ端を集める為に「幻想曲ハ長調」を弾き続けるのだろう。
三人の道化師達、僕の小舟に何時か君達も乗ってくれ給え。そして僕の、人生の一本の道標を探して欲しいのだ。歌の切れ端が沢山散らばっている僕の寂しい心の事件を案内しよう。
誰にも見えぬシューベルト、その人生の遺し得た一つ一つの神秘の中の事件を歩いてみる。これが僕の三十歳の散歩道である。
僕はまず、友人から貰った油絵の事を書いたがその友人も又三十歳でこれを描いたと云う。更に道化師達の手に止まっている純白の鳩は彼が、三十一歳の時に事有って描いたと聞いて居る。僕はそれを「事」としてしか聞いては居ない。大きな事件なのだか、些細な「出来事」なのだか恐らくは個人的な問題だったのだろう。しかし三羽の鳩は極めて、明白な答えの如く明るく浮き上がっている。
彼がどんな「出来事」を体験したのか無論解らぬが、確かに鳩が応えている。
エゴン・シーレは獄中で赤いトマトを描き乍らその色彩の眩しさを己の救済だと信じたけれども僕の友人にとって三羽の鳩が救済に近い意味を持っていたのだろう。僕も又そういう彼の絵に言い切れぬ何かを感じたのである。
僕にとって三十歳という年齢は何だか不思議な年齢のように思われる。何時も机の前に居る自分が時折透明に成って肉体も精神も区別の付かぬ状態を恐れて居るのである。
青春とは「出来事」に別れを告げて己の魂の野道を散歩する時の思い出に過ぎぬ。シューベルトはたった今、別れを告げた新鮮な「出来事」に対して感謝と愛とを込めて歌った透明人間である。
したがって事件記者シューベルトの音楽はモノクロ写真のように人々の青春を写した。しかしシューベルトは記事を一切書かなかった。何故なら音楽は常に理解を要求せず、深い森の奥で流れている小川の細流で成ければならぬからである。
[音楽は総て哀しい]そんなシューベルトの独り言は見事に、彼の人生を貫いて永遠の水を僕等に贈り込んで来る。
「幻想曲ハ長調」は僕にとって神秘にして美しい川であった。僕の青春は直ぐにモノクロ写真と成ってシューベルトの音楽と対話をしよう。そこでもしかしたらばシーレのような裸に成った流離人に出会うかも知れぬ。それが誰も知らぬシューベルト像である。
誰も知らぬシューベルト像とは僕の中で創られたものでは有るがしかし誤解された像ではない。事実とは無関係であり乍ら、やがてその事実に繋がるであろう真実である。
今僕がこうして原稿の前で独り言を言えば、シューベルトは直ぐ様歌に変えて仕舞いそうな気がする。過去は断章としてしか考えていず、未来にも美しいものを期待していなかった彼には創作欲が最も確かな足音だった。シューベルトは己の足音のみを認識しつつ信じたと言えるだろう。耳という人間の神秘が彼の足音を信じたのではあるまいか。
僕はこの部屋の中で耳という神秘に出会ってもう随分に成るが、三十歳で初めてシューベルトの謎を感じて居る。謎は多分、三人の道化師の微かな声の中に在るのだろう。そうして僕の青春が未だ敢えかに何かを待ち焦がれて居た頃の噂話の中に在るのだろう。
しかし僕の「出来事」はすでに終った。
この部屋の隅々にまで飛び散った青春の切れ端は今、耳鳴りのように僕の周りで響いていてくれれば良い。それが僕の歌の切れ端なのかも知れぬ。否、化粧を落としたピエロの顔である。
シューベルトは何時もそういう歌の切れ端にメロディーという肉体を与えたのである。僕の心の事件を歌い乍ら彼はこの部屋にやって来る。
メロディーという肉体は声と成り言葉と成り、僕の記憶に渦巻きを創った。その渦巻きがこの部屋に動いている。
[他人の苦しみを理解する者もいなければ他人の喜びを理解する者もいない]シューベルトは晩年こんな言葉を日記帳に書き遺しているが僕のその渦巻きの中心にもそういう冷たいペシミズムが満ちていた。にも拘らず僕は他人の創ったメロディーに親しみを感じて居たのだった。
僕がようやく青春に挨拶をした時に初めてシューベルトの有節歌曲を聴いたのを覚えて居る。
「さすらい人の夜の歌」と題された小さなリートは確かにハンス・ホッターの声と言葉であった。それがラジオだったかテレビだったかは忘れたけれども、あの深いバス・バリトンの歌声は僕の中のシューベルトを根底から覆したのである。
僕はそれまで古い映画「未完成交響楽」に描かれていたシューベルト像を何となく信じて居た。
[我が恋の終わらざる如くこの曲も終わらざるなり]映画の最後に字幕で出されたこの言葉が僕には何だか哀れな歴史の病に思われた。
歴史の病とは壊れたポラロイドカメラに似ている。時代という興味深く眩しい光景の為に主要なシューベルトの顔が映画の中では霞んでいたと言えるだろう。つまり、映像(映画)には或る程度の色彩が物語を解説せしめ乍ら進行して行くから厄介である。
僕等の視覚には寧ろ色彩に飾られた幻影が映り易いのかも知れぬ。時間も空間も或いは人生も命も幻影だとしたらどうだろう。
僕は何という恐ろしい事を考えて居るのだろう。そうだ、シューベルトの人生は紛れもなく輪郭だけのそれだったのではあるまいか。
輪郭が鋭敏に動き回り、シューベルトの自画像と成ってそのまま人生が成り立ったのだろう。僕はホッターの「さすらい人の夜の歌」を聴いてモノクロの自画像を観た。それが僕の顔と同じに見えた時耳はこの部屋で渦巻いている歌の切れ端を知ったのである。
その1 ここまで