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日比さんとモーツアルト iida

 モーツアルトよ、お前の音楽は美しい。だがその美しさは今や自動販売機でおつりを取り出す時に聴くことのできるどこにでもある美しさになってしまった。そしてお前の音楽の表面をかざる楽しさから音楽そのものを聴き取るのはいまではほんとうに難しくなってしまってじれったいほどだ。

 お前を聴いてイマジネーションをはばたかせるとき、どれだけの美しさを表現できるだろうか?お前の音楽をよみがえらせるために音楽家は努力してきた。それを受け取る我々は、まさにいまここでイマジネーションをはばたかせなければいけないのだ。モーツアルトの音楽によって思い起こされる魂の美しさ。その惜しみない表明を日比さんに見い出して、モーツアルトの深淵に日比さんといっしょにたどりつくとき、われわれはやはり、つい口からでてしまうのだ。モーツアルトよ。おまえは美しい。と。

1998/04/30

 額の真ん中に苦しい汗を這わせ乍ら、僕は何時も生という或る瞬間に就いて考えてみる。僕の生きて居るのは特別に作られたこの黒い椅子の上だが、無論生という或る瞬間は僕の生活にもこうして訪れている。続き→  (1998/05/07)

 主張することを許された音は、それ等の音の仲間から外れて人間に先ず語り始める。先ずモーツァルトという人間に語り始めるのである。そしてモーツァルトは生まれたばかりの音を抱き締め優しく愛撫する。続き→ (1998/05/15)

 僕の初めてモーツァルトに出会ったのは確か雪の降る十一歳の晩冬だった。さらさらとした粉雪は窓硝子を弾いて僕の眼球から次々に遠ざかったあの朝、モーツァルトのファンタジアはトランジスタラジオのアンテナから聴こえたのだった。無論、それ迄モーツァルトは何度か僕の耳を訪れてはいたがその美しさに身震いしたのは初めてだった。続き→ (1998/05/22)

 生という或る瞬間、それは死を感じることに始まる。モーツァルトの音楽はその過程に於ける最も清潔な体験である。人間の体験し得る限りの最も美しい生という或る瞬間なのだろう。続き→ (1998/05/29)

 魔笛を大切に奏でるタミーノのように、人生はモーツァルトの音楽に行き渡ってから音は独自の行動を見せる。彼の音楽は謎めいてはいない。ハ短調『ファンタジア』にも謎等隠れてはいない。リストやベルリオーズは音楽に映像を潜ませたが、モーツァルトは音に何も仕掛けなかった。音は純粋な音色に鳴れば良い。続き→ (1998/06/05)

 僕の肉体は今モーツァルトの音楽を欲して哀しんで居る。哀しむということをまるで日常生活の一部として覚悟したふうに、僕の肉体には苦痛ではないのだろう。苦痛と哀しみとは違う。日常生活の一部として覚悟したふうに、僕の肉体は音楽を生の或る瞬間に覚えている。モーツァルトの音、モーツァルトの孤独なお喋りはかって全く自然に僕等の思い出に深く浸入したことも在る。だから僕等は憶えている。続き→ (1998/06/12)

 ・・・しかしモーツァルトのピアノ協奏曲のカデンツァを聴く時、僕等の肉体は一瞬敏感になり凡てのものをノイズとしてしか感じなくなる。だから何気なく日常生活のままに流れていたものは、その音楽という澄み切った時間を通して見え或いは感じるのである。続き→ (1998/06/19)

 ・・・彼の音楽は肉体そのものの中に帰ろうとする。帰ろうとして帰れぬ音の哀しみを、僕等はどんなふうに理解すれば良いのだろう。ヴァイオリンとビオラの為の協奏交響曲は肉体へ帰ろうとして帰れぬモーツァルトの哀しい歌である。続き→ (1998/06/26)

 ・・・ おそらくあのモーツァルトの全てのアダージョは伝説通りスムーズに書かれたに違いあるまい。しかし彼の全てのアダージョは頭に生まれたまま、音符に現れるものではない。モーツァルトという肉体に記憶された上、尚彼の肉声の内に何度もバウンドを繰り返したと言って良いだろう。バウンドし乍ら彼の肉体を知り尽くしたアダージョは、僕等の肉体にも癒えたる者の幸を分け与えようと響く。続き→ (1998/07/03)

 ・・・  僕は坂道を進んだ。少し平担な地面に出ると、其処は観光客の為の車置き場になっているらしかった。未だ桜には速過ぎる。赤いくすんだ車の一台止っていたが、それは妙に光景にそぐわなかった。辺りを見回したけれども誰も居ない。ハ短調『ファンタジア』は依然として僕を抱き抱えたままだった。僕は何かそんな車に興味を覚え、近付いてフロントガラスを覗き込んだ。続き→ (1998/07/10)

十一 ・・・ 形を脱すること、一つの形の中にもがき苦しんでいる或るもの、肉体の中の或るもの、僕の中の或るもの、アマデウス君は未だ憶えていよう。僕と坂道との関係を知っていよう。このテーブルとの親密な愛情も。金色の針のやがて僕の額に動かなくなる迄にアマデウスよ、形の哀しみを響かせてくれ。 続き→ (1998/07/17)

十ニ ・・・ 激しく運動し乍ら、音符の疾走した後に果たして何の残るのだろうか。激しく運動したのは、音符であって伝説の中のドラマではない。音符の僕等の肉体を通過する瞬間に旋律は解される。僕等の意識とは全く異なる方向へと音楽は流れ込み、・・・ 続き→ (1998/07/24)

十三 ・・・ 今『レクィエム』をベームの演奏に聴き終わったが、何だか何時もとは違った。これは死の舞踏だ、静かな死の華麗なる舞踏会、僕は最晩年のカール・ベームを想像して居た。・・・ 続き→ (1998/08/02)

十四 ・・・ 肉体の最後、詰まりモーツァルトの肉体はこの音楽を跳び出した瞬間、もう既に肉体ではなかったのではあるまいか。肉体ではなく音楽そのものになった彼を僕は想うのである。・・・ 続き→ (1998/08/07)

十五 ・・・ 言葉は疾走する。確かに音符に惜別した言葉は、僕の中の張り巡らされた夢を疾走する。

・・・モーツァルトもおそらく最後のファンタジー『魔笛』の中に愉快なパパゲーノを喋らせつつ、その人生を疾走したのである。独りぽっちのパパゲーノ、寂しいパパゲーノ、そして愉快なパパゲーノ、凡ての事を笑い飛ばすパパゲーノ、全てを愛そうとし総てに喋り掛けたパパゲーノ。そういうパパゲーノにとって人生は何時でも何処でも笑い飛ばせるのだろう。・・・ 続き→ (1998/08/21)


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