十五言葉は疾走する。確かに音符に惜別した言葉は、僕の中の張り巡らされた夢を疾走する。
僕は今パパゲーノの近付くのを見詰めて居る。
言葉は疾走する。疾走し乍ら又独りぽっちになる言葉よ、何時か一つこの世に真実を落としてくれ。僕はパパゲーノの詠嘆曲を何時もそんな想いに聴く。モーツァルトもおそらく最後のファンタジー『魔笛』の中に愉快なパパゲーノを喋らせつつ、その人生を疾走したのである。独りぽっちのパパゲーノ、寂しいパパゲーノ、そして愉快なパパゲーノ、凡ての事を笑い飛ばすパパゲーノ、全てを愛そうとし総てに喋り掛けたパパゲーノ。そういうパパゲーノにとって人生は何時でも何処でも笑い飛ばせるのだろう。人生を笑い飛ばすこと、それはモーツァルトの結論だと言える。否結論等という程の大げさなことではない。何時も淋しかったモーツァルトの独り言に過ぎぬ。
何時も淋しかったモーツァルト、何時も寂しかったパパゲーノ、僕はこのさびしさを音楽と呼んでいるのだろう。さびしいのは誰とは言えぬ。さびしいのは僕等から次々に別れて行く音楽の方である。
モーツァルトの音楽はモーツァルトよりも寂しい。詰まり音楽の変容する程『魔笛』に於いては寂しく端整に響いて来る。パパゲーノの詠嘆曲はこの定められた音符の曲がり角だった。
音楽はもう鳴らぬ。しかしパパゲーノは唄を止めぬ。唄は唱うことに因って瞬間を示すからだ。
寂しい唄は瞬間を生きパパゲーノはその化身だった。過去も未来もこの愉快な大男は完全に無視してしまって、瞬間にこそ最も重要な約束を交わすのだ。
寂しい唄にはもう何も付いては来ない。
言葉の在るきりだ。
パパゲーノの信じたのは肉体だけである。肉体の一部としての唄には、全て流れている。
唄という肉体はモーツァルトの希望した通り、パパゲーノに宿り音符を又創造しようとするが音符は終に彼には帰らず行方も知れず一つの円錐の中に蜷局を巻く。
『魔笛』の隅々に行き渡っている音楽に別れを告げる為の音楽は、確かに人生を生きた人というよりも人生をそのまま飲み込んだ人の独りぽっちの淋しさの見える気もする。それこそパパゲーノなのである。
愉快な孤独を持ち歩き、鳥を狩ることに自然へ反抗したパパゲーノである。
僕はパパゲーノは誰のものでもなく、モーツァルトのものだと書いたけれどもパパゲーノはモーツァルトからも孤立している。
全ゆるものから解き放され、一切は無関係になるアリアの美しさ。僕はフィッシャー=ディスカウのパパゲーノにそんな大男を見乍ら、その遠い闇の背景にやはりモーツァルトの微笑みを感じた。それはランゲの描いた表情よりももっと柔らかだった。故に今にも何か喋り出しそうであったが、唇は堅く閉じたきりだった。
僕の此の部屋の何処かにそういうモーツァルトの微笑の遺っているかも知れぬ。モーツァルトではなくモーツァルトの微笑、それは別段気味の悪いことではない。
微笑は淋しい詠嘆曲に囲まれているようにあたかも穏やかだがやはり別れの予感に震えている。
震える微笑の周りにはしかし何も無い。
僕の部屋の不思議な出来事は生という或る瞬間に僕の肉体に忍び込み、音楽を言葉に迄追い込む。そして僕の言葉は疾走した。
僕にも見えぬ速さに今言葉は通り過ぎて行く。
行く言葉
行くさびしさ
行く故郷
行く青春
行く肉体
行く名前
僕は行くもの全てに拍手を贈る。
僕は誰だ。
僕はひとりだ。
壁に掛けられた時計、その金色の針の何と艶やかなことだろう。けれども僕は此処に居る。
祖母の命日にて 九五年三月三一
日比 工