金色の針=独りぽっちの音楽

日比 工

十四

 瞬間は時の仲間ではない。彼の『レクィエム』は瞬間には違いないがそれは或る空間を抱えている。音符はこの傑作に激しく運動し乍ら疾走する。音符はしかし『レクィエム』の中から逃れ得ぬ。広大な音楽という空間を抱えた未完の大作は、未完故に音符を離さない。けれどもこの中には既にモーツァルトはいない。父レオポルトも其処にはいない。何時の間にか二つの表情は音楽という空間を抜け出し、又旅に出ようとしている。モーツァルトのふるさと等無いと僕は言い切ったが、ふるさとは確かに在る。瞬間こそふるさとだ。

 瞬間は去る。

 瞬間は波に似ている。

 涙に似ている。

 瞬間は過去には帰らぬ。

 瞬間は去る。

 未来は信じ難い。

 アマデウス、君は又哀しむ。君は急いで、音符を書かずにはいない。『レクィエム』に音符は溢れて凄まじい勢いに動いている。僕はその音符の動きに僕自身の頭の中を観る思いだった。

 幼い頃母に抱かれたまま階段から落ちた為か、脳の左側に水の溜まった僕の頭だが最近そのことも気になり始めて居る。頭の中心のやや右後方に何時も何か動いていそうに感じられる。僕は医学等判らぬが、どうやら此の痛みは理に叶っているから厄介だ。芥川よりも深刻ではないにしろ、やはり穏やかではない。そんな時にモーツァルトを書く等は如何にも僕らしい。

 僕の部屋は此処暫くモーツァルトのディスクに一杯だけれども『レクィエム』は意外に少ない。少ないのではなく二枚しか無い。ベームとジュリーニである。モーツァルトの『レクィエム』と言えばどんな怪しい海賊盤でも一応は聴きたい衝動に駆られるのだが、結局これだけ残っている。僕はその愛するベーム盤を聴いて考えた。

 肉体の最後、詰まりモーツァルトの肉体はこの音楽を跳び出した瞬間、もう既に肉体ではなかったのではあるまいか。肉体ではなく音楽そのものになった彼を僕は想うのである。

 『レクィエム』に殺ぎ落とされたのは彼の生活であり、彼の人生でもあった。そう考えると僕は何だか彼の音楽の突然解ったような気になった。しかし実は何も解っては居ない。僕に解ったのは音楽の模倣した肉体の哀しみだけだ。音楽に殺ぎ落とされた肉体の哀しみだけだ。

 紛れもなく僕の頭にも動き始めた金色の針は一体何時僕の額から消えるのだろうか。生という瞬間にあの『レクィエム』は僕の脳味噌を疾走した。それだけかも知れぬ。

 真実はパパゲーノの独りぽっちの陽気なアリアと、そして『レクィエム』という広大な音楽だけだった。僕の頭を駆け抜けるモーツァルトの音楽に出来事は連れ出され、僕の中の曲がり角に佇む。それはもう独りぽっちだ。音楽はもう鳴らぬ。音楽という恋人と騒ぎ過ぎた言葉の欠片は何処に行くのだろう。僕の中のパパゲーノ、又不思議な旅を続けようではないか。

 この世に無いのは真実だけだが、しかし友よもう一度唱ってくれ。あの愉快な独りぽっちのアリアを胸張り広げて堂々と唱ってくれ。あのアリアは、例えば僕の故郷だったことも在る。それは孤独なる者の故郷、黙する故に唱うのはパパゲーノ、寂しい言葉だけなのだろうね。

 凡て実存する人の世に独り佇むパパゲーノ、君の唄は如何にもモーツァルトの最後に相応しく素朴な溜息を含んではいる。けれどもそれは何から生まれた溜息なのか。この世に無いのは真実だけだ。モーツァルトはそんな事実に溜息した最初のロマン主義者だったのだろう。彼の素朴な溜息とはやはり岩の上に頬杖付き乍ら唱うパパゲーノの寂しさに他ならぬように想われる。僕はそのパパゲーノに何時も感動して居る。

 元来ヴァーグナーの楽劇Musikdramaにしか感動しなかった僕はこのアリアにだけは身震いしたのだった。僕の感動したのはディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ演じる処のパパゲーノだったからかも知れぬ。

 年輩のA氏という音楽仲間に、そのことを話すと氏は笑って<アアイウカオデ、パパパハ、ナニカヘンダネ>と云うことだった。氏はかなりモーツァルトに詳しい人だったけれどもパパゲーノの寂しさとは無縁らしい。

 僕はふとそう考え乍らあのariaの鳴るのを聴いて居た。

 詠嘆曲はやはりフィッシャー=ディスカウのハイバリトンに磨き抜かれた言葉を以てパパゲーノの寂しさに近付いて行く。

 それぞれの理想のパパゲーノは当然いる。しかしパパゲーノはモーツァルトの中から跳び出したのだ。誰のものにもなるまい。

 ゲーテは晩年『ファウスト』をモーツァルトに作曲して欲しい意向を明らかにしていたが、僕は『魔笛』こそそのゲーテの意向に添うものだと信じて居る。当時モーツァルトはゲーテの『ファウスト』を知っていたかどうかは疑問だが、この二人のそれぞれの最後の作品はこの世のものならぬ美しさを孕んでいる。

 あのパパゲーノの詠嘆曲は、世に別れを告げる独りぽっちのピエロの唄として僕に迫ってくる。


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