十三
僕の孤独もおそらく、そういう孤独に近付きそうだ。
今『レクィエム』をベームの演奏に聴き終わったが、何だか何時もとは違った。これは死の舞踏だ、静かな死の華麗なる舞踏会、僕は最晩年のカール・ベームを想像して居た。
小林秀雄氏の道頓堀の孤独に鳴ったト短調シンフォニーは多分ベームの全盛期に録音されたものに思えてならぬ。ベームの遺した(余り多くは無い)どの映像を観ても、その細いタクトはかなり曲がっている。しかしベーム愛用のタクトはどうしてもそのタクト一本とは思えぬ。ということはベームはタクトを曲げて使うのだろう。カラヤンの短く太い真っ直ぐなタクトに比べると僕は何か音楽造りも性格も反対のような気もする。中程をしかも鍵型に曲げられたタクトは、モーツァルトの音符を飽く迄主張する通りに鳴らそうとした。そうして精神も肉体も衰弱した小林氏の孤独に収まり、脳味噌を手術する。在り得ぬことではあるまい。今僕の頭もそういう種類の或ることの起こったのである。
そうだアマデウス、君も僕も更にベームという指揮者も、孤独の仮面を被ってはいなかった。孤独は生という或る瞬間に永遠を育み与える。君の『レクィエム』はベームの曲がったタクトに時間を与えられ動き出す。音符は音符としての別れを君に告げた。
君は又哀しむ。君は書かずにはいない。けれども音符は悲しまぬ。音符は疾走する。
君のただ一つ信じた瞬間をまさしく疾走する。
僕はあのベームの曲がったタクトの気になる。あのタクト、何故に曲げねばならなかったのだろう。癇癪を起こし譜面台を叩いたにしては折れてはいないし、地面に叩き付けたにしてもそんなには曲がる物ではない。僕は例の金色の針をベームのタクトに感じつつ『レクィエム』を聴いたが実は又「アマデウス」の一シーンを思い出して居た。それはもうラストに殆ど近くモーツァルトの死体を土葬するシーンだったけれども、『レクィエム』は雨に馬車の轢む音と共に激しく鳴る。彼の死体はずぶ濡れの毛布に包まれて、大きく掘られた地面の穴にまるで空になったドラム缶のように弾む。僕には何かその中に彼の馬鹿笑いの聞こえたのだった。死体とは全く別な場所にモーツァルトは『レクィエム』を指揮している。そんな気もした。如何にも彼らしく跳んだり跳ねたりし乍ら、音符と別れるモーツァルト。そんな彼の手には金色のタクト。しかし君は又哀しむ。君は書かずにはいない。
思うにベートーヴェンとスコアとの関係は日常生活に迄凄じい嵐を呼んだが、モーツァルトの場合はどうだろう。何度も言うが、モーツァルトは音符を愛してはいた。けれども音符は彼を愛してはいなかった。もっと正確に言えば彼の書いた音符は、彼に書かれている瞬間だけ彼を愛した。音符はそして疾走する。疾走して尚バウンドし、彼の少年時代のように決して戻らぬ旅をする。決して戻らぬ旅それもやはり彼の天才にのみ開かれた扉の一つであった。
彼には安らかに過ごせる場所等無い。もしモーツァルトにふるさとと呼べるものの在るとすれば、それは父親の背中と足音だった。
アマデウス、君は又哀しむ。君は音符を書かずにはいない。こうして君の書いた音符は君の代わりに、ふるさとを訪ねて旅するのだろうか。君の代わりに、否である。モーツァルトから生まれたあの美しい音符は、モーツァルトのふるさとではなく音楽の故郷を求めたのだろう。
音楽の故郷には必ず音楽の模倣しようとしたものの在るきりだ。音楽の模倣しようとしたものとは、人の肉体だと言える。
健康な呼吸と正常な命に満ちた肉体こそ、全ての音楽を生み音楽に流れを与えた。呼吸はリズムを取り、五官は調和を作り、意識は旋律として結ばれた時に人は始めて歩き出す。
人は自らの内に完全なる音楽を所有しているのだ。しかしモーツァルトに因って書かれた音符はそういう健康な肉体には帰れなかった。詰まりそれ等呪われた音符連と言えなくもないモーツァルトのスコアには、肉体の育んだ音楽とは異質の音符の書かれたのである。モーツァルトの音楽は悲しい。けれども確かに音符はもっと哀しい。
アマデウス、君は又哀しむ。君はだからこそ音符を書かずにはいない。悲しい音楽よりももっと哀しいのは君の書いたパパゲーノのアリアの声部に違いない。「恋人か女房がいればいいな」と笑いを誘い乍ら唱われるパパゲーノの深刻なアリアは実はモーツァルトその人の孤独なる呟きではなかろうか。この世に独りいることの苦悩をパパゲーノはこんなに愉しいアリアに唱える程哀しい。それはベートーヴェンの『フェデリオ』のフロレスタンの牢獄のアリアよりも哀しいモノローグである。
この世に一人しかいないから悲しむのではない。パパゲーノは独りを覚悟した一人ぽっちだった。
音楽に別れられた悲しみ、音符に別れを告げた哀しみ、モーツァルトはそうしてパパゲーノを創造しジョバンニを世に贈り出したのだった。ベームはそれを感じとっていたかどうか知らぬが、『レクィエム』のディスクを聴く限りベームも又音符に対する惜別の瞬間を切々と祈り歌い上げようとしている。
あの鍵型の細いタクトを振りつつ『レクィエム』を、かなり遅いテンポに演奏するベームに僕はレオポルトを想像する。金色の針を握っている父親レオポルトに見える。広い肩幅の背の高い紳士のレオポルトは僕の方へゆっくり歩いて来る。この健康な正常なレオポルトの肉体は、やはり音楽の故郷かも知れぬ。
アマデウス、君は又哀しむ。君は急いで音符を書かずにはいない。レオポルトの表情はだんだん輪郭を失い、風景のように広がり君の周りに散らばると、其処はもう君の懐かしいふるさとになった。
ふるさとでは瞬間こそ全てのものを所有していた。そんなふうに彼はこの厳粛なる父親レオポルトの亡霊と戯れ乍ら『レクィエム』を書く。モーツァルトの父は彼にとって善と悪の概念に等しかった。その父に対する愛と憎悪の交錯したただ一点を彼はふるさとだと考えた。
僕はモーツァルトの音楽を聴く時何時もそういう彼と父親とを一緒に想像してしまうのである。けれども決してこの親子は向かい合ってはいない。沈黙する父と子、それは二つのデスマスクのように別の方向を見詰めている。二つのマスクは一つの表情に収まろうと願いつつも、互いに拒絶し合い哀しんでいる。僕にはそう感じられる。これはあの『レクィエム』のせいだろうか。