十二
孤独になった彼の表情は何も変わらずただ下を向き目を見開く。
アマデウスよ、君は音符を記した。けれどもそれは音楽に別れを告げることでもあった。かって己の記したどの音楽も、彼と別れる為に音符として生まれたに過ぎぬ。それもそれぞれの音の記憶されることを拒否するならば、モーツァルトという天才の名も忘れられている筈だ。しかし彼の音楽はその名声の危機を一度も迎えなかった。何故か、僕にも判らぬが天才の生み出した天才の音楽にはおそらく、人の肉体に快い刺激を与えるのだろう。
刺激的なモーツァルトの音楽、余りにも相応しからぬ言葉だが僕は決して彼を誤解して等居ない。言い直そう。モーツァルトとはその音楽のみ際立って天才的だった人の名前である。
激しく運動し乍ら、音符の疾走した後に果たして何の残るのだろうか。激しく運動したのは、音符であって伝説の中のドラマではない。音符の僕等の肉体を通過する瞬間に旋律は解される。僕等の意識とは全く異なる方向へと音楽は流れ込み、僕等は或る顔に出会いそれの何であるか確かめられぬまま顔は僕等の表情を通過する。通過した一つの顔は僕等の表情から遠ざかるに連れて音楽に戻るのである。
僕は今確かにモーツァルトを書いて居るのだけれども、あの顔に擦れ違った瞬間ささやかな永遠を感じた。ささやかな永遠、僕は激しく運動する音符の中に抱かれたのだった。
僕はやはり時計の金色の針に、途方もない恐怖を見詰めて居る。この金色の円の内に僕の額は何時も見詰められている。紛れもなく円の内に僕の人生は動いている。円は間違いなく生という或る瞬間を捉えて、無数の体験を僕に与えた。僕の生というモノグラフィーは凡てこの時計の円の中に解かれたと言って良い。円は僕の額を照らす最も明るいスポットライトのような空間に思われたが、細長い秒針はどうだろう。モーツァルトの激しく運動する音符の一つ一つは、もしかすると秒針その物かも知れぬ。確かに単調な動きではある、けれどもあの音符は収まりそうである。一秒に一つ音符は填り込む。幾度も複雑な変容を用意していた筈の音符も、実はそんな単調な動きに流れていたとしたらどうだろう。複雑な音楽等この世に在るだろうか。複雑なのは音符の、そのまま秒針になったことだ。そうして音符は常に別れを告げ乍ら僕等を眺めているということだ。
数年前公開された「アマデウス」というアメリカ映画の最後に『レクィエム』を作曲中のモーツァルトの描かれたが、僕はその表情に何か言い知れぬ淋しさを感じて身震いした。F・M・エイブラハム演じるモーツァルトは亡霊の依頼だと信じ込み有名な『死者のためのミサ曲』をその死の床、アントニー・サリエリの手を借り作曲する。彼の肉体は、既に音符を搾り出して硬直していた。点滅する意識の中に音符を必死に掴もうとする彼の表情、大きく見開かれた目、それから時折何かを掻き分けでもするような手、それ等は飽く迄音符を頼りに動くのだった。音符は何よりも《行く》という哀しみに満ちて、彼の周りに巡り続ける。それは僕には凄じいモーツァルト像であった。
映画はミロス・フォーアマンという監督の作品だが、僕は何だかあのモーツァルトの案外本物のような気もする。『レクィエム』を創造し乍ら、彼は音楽の最後を見届けようとしたのだろう。見届けた瞬間、彼の人生も音符に見届けられたのである。音符はしかしその時それ以外の何物でもなかった。僕はそう考える。
激しく運動するそうして単調な音符は今僕を疾走する。このクリーム色のテーブルの上を疾走する。金色の円の上を、金色の針のエナメルを疾走する。 音符以外の何物でもないものは激しく動き乍ら、彼の生の瞬間を疾走したのだ。生という瞬間こそ音符の存在する場所だった。存在するのはモーツァルトの書いた音符、あの全く書き直した様子の無い綺麗な絵模様のようなスコアだけだった。スコアはただモーツァルトに書かれた時から何も通過せず僕等の耳を通過する。そして音楽になった瞬間、僕等の前にモーツァルトは現れる。アラジンの手にした魔法のランプの中の召使いのように現れる。けれどもやはり孤独な表情をしている。「アマデウス」の中にエイブラハムの演じた馬鹿笑いと、孤独とは同じ表情かも知れぬ。僕は二つの表情を記憶の中に比べてみる。同じ表情だ。彼の馬鹿笑いは彼の孤独の終わりだ。
彼の孤独は孤独という仮面を被ってはいなかった。詰まり馬鹿笑いは彼の表情をしばしば訪れる発作に過ぎず、音楽はそんな彼から疾走し続ける。 疾走した音楽の後には、又音楽のやって来るというふうに彼は休むことを知らなかった。否、休むことは絶え難い馬鹿笑いと出会うことだった。
モーツァルトの「哀しみは疾走する。涙は追い付かない」しかし疾走したのは音楽の方だ。
疾走する音楽を追い掛けて疾走しようとした瞬間に、モーツァルトは人生の真実に突き当たりそれなり止まってしまう。
『レクィエム』を完成しなかったのは彼の生の尽きたからではない。どうしても追い付きたい音楽のパッセージを『レクィエム』の懐に書いてしまったからだ。彼にとって世に捕らわれた肉体こそ生という瞬間であり、自由になればなる程死に近くなるのだった。
死は何の変容も要らぬ。死は孤立した形に過ぎぬ。形なきかたちの絶対的なる価値、モーツァルトはそれをスコアにし死に対してその署名を取ろうとしたに違いない。
『ドン・ジョバンニ』の孤独な運命と『魔笛=Die Zauberfl!te』の明るい神秘とを編み合わせた巨大な縄のような音楽『レクイエム』に配置されたのは紛れもなく死という退屈な瞬間だった。エイブラハムの演じた程、モーツァルトは死を恐れてはいなかった。生も瞬間なら死も又瞬間だ。次なる出来事は彼には無に等しく、故に彼は孤独であり続けた。