金色の針=独りぽっちの音楽

日比 工

  十一

 あの日僕は若かった。【花の寺】の道標におそらく僕の青春はあの日、あの瞬間乗り移ったのだろう。

 なだらかな坂道、僕は進んだ。【花の寺】の道標になってしまった青春を求めて僕は進んだ。坂道は限りなく何かを生み出し乍ら、僕の眼の前にうねるばかりだった。風景は凡て僕の眼の前の坂道から押し上げられ、形有る物は僕の前に立ち塞がる。けれども僕は構わず進んだ。青春を見逃したくなかったからだ。【花の寺】の道標にあの瞬間以来僕の青春は住み着いた。そして何時もモーツァルトに揶揄れている。

 青春、僕のそれはこの坂道に始まり幾つもの物を照らして幾度か変容を繰り返す一つの陰であった。僕の陰、なだらかな坂道をゆっくり進む陰。【花の寺】の道標に住み着いた一つの陰を僕は愛して居る。故に僕は【花の寺】に独り向かわねばならぬ。何故か、何故向かうのか。ただあの陰には形を脱しようとする意志を感じたからだ。

 形を脱すること、一つの形の中にもがき苦しんでいる或るもの、肉体の中の或るもの、僕の中の或るもの、僕はそれへ向かって坂道を進んだのである。このクリーム色のテーブルも、今やはりあの陰を宿して僕の前にもがいている。相変わらず、僕の陰も苦しい呼吸を続けて、モーツァルトの孤独なお喋りを待っている。僕はあの坂道を登りたい。もう一度あの立札を確かめたい。確かに僕の青春は生きているのか、アマデウスよ確かめてくれ。

 形を脱すること、一つの形の中にもがき苦しんでいる或るもの、肉体の中の或るもの、僕の中の或るもの、アマデウス君は未だ憶えていよう。僕と坂道との関係を知っていよう。このテーブルとの親密な愛情も。金色の針のやがて僕の額に動かなくなる迄にアマデウスよ、形の哀しみを響かせてくれ。

 あの日僕の眼の前に現れた凡てのものに僕は今挨拶したいのだ。君の『ファンタジア』の美しい旋律そして形の無いものへ僕は願いたい。僕と物との関係は、或る瞬間に鳴った音楽に記憶された言葉とその余韻に似ている。

 一つの形の中にもがき苦しんでいる或るもの、肉体の中の或るものそれ等の余韻はあの日【花の寺】の立札にバウンドして帰って来た響きだと言えるだろう。響きはバウンドする。確かなことだがしかし響きは消えてしまうということも確実な事実である。消えてしまう響きを如何にして永遠に残し得るか、残すのではなく如何に跳ね返えさせ得るかだと僕は考える。

 響きを残響音として保つには、先ず知識という壁を持つことである。知識とは乱用して人を傷付ける為の武器ではない。飽く迄、自己を守ろうとして積み重ねるバリケードに過ぎぬ。そのバリケードは孤独な人間の孤独な瞬間を守り外界からの孤独な歌に響くのだろう。モーツァルトの歌曲のそういう孤独者に響くのは、それを歌う歌手と聴き手の瞬間に生まれる青春である。僕は時折そんな君の歌曲に貴重な瞬間を体験するが別段幻想だの夢想だのとは思わぬ。牟ろどんな現実よりもそれは肉体的な重みさえ在る。僕は神秘主義でもなければ、滑稽なヒューマニストでもない。僕は肉体主義だ。健全な肉体主義。

 形を脱するもの、一つの形の中にもがき苦しんでいる或るもの、肉体の中の或るもの僕の中の或るもの、モーツァルトの歌曲はそういう或るものを解放へと導き、幾つかのパスワードに反応し乍ら僕等の青春に飛び回る。まさしく変容はモーツァルトの仕草のように、多彩であり乍ら何時もモーツァルトたることを主張して止まぬ。変容は僕等の知識というパスワードに忠実に、そして響くのだ。変容するのはモーツァルトではなく音楽自体の生命力のように思われる。けれどもモーツァルトの音楽は何処迄もモーツァルトである。

 変容するモーツァルトの音楽、僕はこんな使い古した言葉を今更持ち出したくはないけれども変容せぬモーツァルトの音楽も又在る筈だ。彼の音楽の変容するのは聴き手のせいである。これも言い古されたことだが、実は僕のモーツァルトも彼自身は変わらず僕の方から変えたのである。そんなふうに変容するという言葉も、僕等は変容させてしまう。しかしただ一つ、僕等には変容出来ぬ物もある。それは僕等の肉体だ。自分の肉体だ。凡てのものを変容して来た僕等の知識の行き詰まるのは己の肉体だった。

 ファウスト博士は最初、メフィストに望んだことの虚しい願いも、嫉妬に身を翻した清姫の儚ない恋も紛れもなく自己の肉体の変容だった。ただ一つ変容出来ぬ物に対して人の知識は、知恵というもっと柔らかな場所に想像の根を張り拡げて夢を見る。モーツァルトはそんなこと等考えず音符を書き並べたが、彼も肉体の部分に人間の悲劇の歴史を忘れてはいなかった。したがって彼の音楽の変容は人の最後の夢に向かって今も飛び回る。僕等をして飛び回るのだろう。形を廃した途端最も哀しい形に憧れる。それは最初与えられたことの有る玩具を、一つ飽きる度に欲する幼児に似ている。玩具はモーツァルトにとって彼の一切の願望を受け入れず願いも拒否し乍ら、一つの形のまま彼を閉じ込めた。彼はその形に反抗し音楽には自由な変容を許したと言えるだろう。

 変容することに何の苦も無いような音楽は、モーツァルトの肉体から出来る限り遠い処に鳴ったが僕には肉体の中に聴こえたのだった。確かにモーツァルトの肉体を離れた音楽は僕等の肉体に悲劇を思い起こさせずにはおかぬ。人の世の最初にして最後の悲劇は自己の肉体の変容の不可能に在るがアマデウスよ、君の哀しみは僕等の肉体の悲しみに交わりその瞬間既に君の音楽は次の音を哀しんでいる。

 僕は肉体の変容等ということは殆ど考えなかったけれども、それは頭だけのことに過ぎず僕の肉体もやはり変容することを望んで居た筈だ。例えばカシアス・クレイのファイティングポーズに身震いした夜、眠りも浅く夢を見た。氷上を駆け回るハルラモスも、水中を飛ぶスピッツも僕の大切な肉体の象徴だった。あの肉体は凡て美しく輝いていた。

 ミケランジェロの肉体、ロダンの指、ブールデルの足、そういう数多の形は今僕の目の前を通り過ぎて行く。このクリーム色のテーブルのエナメルから、それ等は生まれ乍ら大きくなり次々に僕に襲い掛かろうとしては消えて行く。僕はそれ等をずっと無視して頭に流れ込む言葉を選んで居たのだった。しかしアマデウスよ君の音楽は僕にそれ等をもっと知ることを奬める。それ等の正体をもっと解釈せよと云うのか。否、解釈等出来ぬ。

 形を脱するもの、一つの形の中にもがき苦しんでいる或るもの、肉体の中に吸い込まれたもの、僕の中の或るもの、アマデウスよ君の中に沈んだ僕の肉体のあれこれを僕は今愉しもう。

 形は哀しみの中に生まれ愉しく散らばり、淋しい音楽を君に提供する玩具だった。形という玩具に君は丁度、今の僕のように名を与え続けてもて玩んだ。そうして君ももて玩ばれた。其処に君の音楽は見事に開花していた。開花し続ける君の音楽とは、まさしく変容を繰り返す。

 音楽の中に音の壁を創り、その壁に音楽を跳ね返らせようと構成された君の音楽は故に君の肉体を追い込んだ。音楽の隅に追い込まれた肉体は崖淵の生き物のように何かを探そうとする。何かを生み出そうとする。そんな激しい運動も実は、あの美しい音楽の中に起こっているのである。アマデウスよ、僕は君の優美さの内にそういうサディズムを何時も感じつつクリーム色のテーブルを見詰める。静かに見詰める。

 形を脱するもの、一つの形の中にもがき苦しんでいる或るもの、モーツァルトの中の或るもの、僕の中の或るもの、それ等はこのテーブルに現れた在るものだ。君の音楽は何よりも先ず君の肉体に跳ね返った音楽だということ、肉体に跳ね返り形を生み出そうとした君の固有の時間こそは音楽になった。 何かを生み出そうとして激しい運動をする肉体はアマデウスよ、君の場合常に音楽の内に存在していた。

 僕はそう堅く信じて居たいのだ。

 肉体に跳ね返り形を生み出そうとした君の固有の時間はおそらく君の音楽そのものなのだろう。僕のクリーム色のテーブルの上に君の音楽は、幾度も訪れ或る形を伝えようとして僕の身体に覆い被さったけれどもやがて僕の肉体に交わることは出来なかった。一見柔らかな音楽はピンポン玉のように、硬質な表面を持っていた為に全てのものに跳ね返った。君の音楽は君の肉体にも跳ね返り、形を生み出そうとした固有の瞬間に違いないが君本人の内にさえ交わり切らぬ響きをも含んでいる。何かの変容するのではない。或る一つのものの何かに変容するのではなく詰まり形の定まらぬものの変容である。形無きものの変容、生という或る瞬間に捧げられた変容、失われたものから失われようとするものへの変容、君から僕への変容、変容するのは未だ知らぬ魂の形だった。

 音楽の内に立てられた音の壁に尚生まれたばかりの旋律は跳ね返って、又音楽となって同じ形式を創る。まるで捕まえ処の無いアナコンダのような音楽はやはり人の望んだ最後の肉体の変容を掻き立てている。

 あのピアノソナタ第十一番のトルコ行進曲はそんな最後の希望を掻き立て、そうして打ち消しでもするふうに終わるのである。僕等は其処にまだまだ聴いていたい快活な旋律を発見し、プレーヤのバックステップボタンを押してみる。掻き立てられた僕等の希望は何処にも見当たらぬ。消えてしまったのではなく見当たらぬということを僕等は知っている。僕等は探す。

 僕は今僕の肉体にあの快活な旋律の沈むのを見た。それは何時の間にか僕の右掌の長い爪に吸い込まれて行く様であった。右掌は暫くの間痛んだ。しかしあの音楽は美しかった。確かに肉体に吸い込まれたモーツァルトの音楽は美しい。激しく運動するピアノの音色こそモーツァルトだ。

 肉体の欲したのはまさしく時間と共に過ぎ去り、或いは遠ざかって行く旋律の美しさだった。激しく運動し乍ら音符は沈黙する瞬間を過ぎて行く。金色の針のだんだんに僕の額の真ん中を削るように、モーツァルトの音符も永遠という瞬間にしか存在しようとはしなかった。

 過ぎて行くのは生という或る瞬間にもう鳴ってしまった音楽なのだ。あの快活なトルコ行進曲は激しく運動し乍ら、実は僕等の記憶にさえ残ることを拒み続けた音符ではあるまいか。記憶の内にリピートされようとされまいと、そんなことは関係なく記されたのだろう。詰まりその瞬間に鳴れば、モーツァルトの音は彼の音楽たり得たのだった。激しく運動し乍ら音符は全てに別れを告げる。そして又モーツァルトは孤独になる。


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