金色の針=独りぽっちの音楽

日比 工

  九

 今僕の部屋にはささやかなクリスマスパーティーの後の蝋燭の一つ、机の上に灯っている。僕はじっと炎を見詰める。小さな炎、ワイングラスの水の中に揺れ乍ら静かに浮かぶ小さな炎、僕は一時真の安らぎに出会った。こんなに小さな一つの炎に見た僕の幸はやはりモーツァルトのアダージョに似ている。

 永遠にバウンドする光も音楽も或る意味に於いては同じかも知れぬ。僕は未だ見詰める。ワープロのモニターの横に在るのは果たして蝋燭の灯なのだろうか、それともモーツァルトのアダージョの一切れなのだろうか。けれどもこの灯りも近付けば非常に熱い。熱すればこそ明るくなる。

 静かだ、それにしても静かだ。

 おそらくあのモーツァルトの全てのアダージョは伝説通りスムーズに書かれたに違いあるまい。しかし彼の全てのアダージョは頭に生まれたまま、音符に現れるものではない。モーツァルトという肉体に記憶された上、尚彼の肉声の内に何度もバウンドを繰り返したと言って良いだろう。バウンドし乍ら彼の肉体を知り尽くしたアダージョは、僕等の肉体にも癒えたる者の幸を分け与えようと響く。

 僕は未だ小さな炎を見詰める。何と暖かく何と静かだろう。

 静かな炎、何よりもそれはモーツァルトに似ている。そんな炎の中へ僕のモーツァルトを訪ねて旅に出よう。今宵は聖なるクリスマス、伝説はやはりこの炎から広がるだろう。モーツァルトという伝説、静かに歌を称えるのは小さな炎の安らかな伝説である。僕は未だ小さな炎を見詰める。炎はやがて消える。しかし僕の記憶では永遠にバウンドを繰り返す。おそらく万物一体となった記憶の森にこの小さな炎も流れて行くのだろう。そして僕の言葉として再び呼び起こされた時、それは尚美しく灯っていなければならぬ。出来事はバウンドする、事物はバウンドする。

 さて音楽そのものはどうだ。記憶の森の中に音の鳴った瞬間、幾つもの思い出に跳ね返り音は確かに遠くなる。音は消えそうになる。けれども其処に遠くなる音の哀しみは、音楽を遺すのである。音の遠くなればなる程僕等はそれを返そうとする。モーツァルトのアダージョは、そういうふうに僕等の音楽を助力する。

 僕は今小さな蝋燭の炎の内に居る。思い出の森には長い髪の下に耳を隠した青年も散歩している筈である。

 音は哀しい。そのこと、その単純なことに就いて耳を隠した青年はあたかも新しい発見でもしたようにあのアダージョを書いたのだろう。音は哀しい。けれども音はバウンドを繰り返す度に音楽になるのだと。

 青年は歩く。風と戯れ木樹の言葉に感謝し思い出という落ち葉を集め乍ら、青年は歩く。

 金色の針は僕の額を照らしてあの青年との距離を縮める。

 時こそ全てだ。瞬間こそ全てなのだ。肉体に帰ろうとして帰れぬ音楽はそんなそれぞれの瞬間に根付いた僕の、そうしてモーツァルトの思い出だ。僕は未だ小さな炎を見詰める。思い出という落ち葉を僕は数える。僕は今此の部屋にしか生という或る瞬間を過ごせなかったことに何の不足も持っては居ない。時は例えば涙に似ている。モーツァルトの頬は、何時も涙に濡れていた。僕は涙等信じぬがモーツァルトの涙なら素直に信じてみよう。

 僕は未だ小さな炎を見詰める。静かだ。

 今は寒い。しかし耳を隠した青年の胸にも寒さは限りなく過ぎて行く。次から次へと寒い涙は旋律になって音符として遺される。聴くこと等おそらく必要なかった二つの耳は黙する音符に憧れたとは言えぬだろうか。音楽を聴くことにもう飽きてしまった耳の不思議な体験それは如何にも寒い気温に吐いた溜息のように儚ない。僕はそんなモーツァルトの涙を信じたいのである。僕の少年の頃、皆は涙の無いのではと疑い心配したが僕は泣くことを知らなかっただけだ。

 友よ聞いてくれ。僕は泣いて居た。しかし涙は頬を伝わらずその裏の神経を濡らし乍ら乾いた筋肉を揺さぶった。涙を感じた僕の胸の筋肉は声を想像し、声は肉体に痙攣を起こした。僕の肉体の自己主張は先ずそんなふうに始まると、神経は総て刺激を求めた。何かを掴もうとする赤子の掌のように、僕の肉体は震え乍ら主張した。友よ聞いてくれ。僕は泣いて居た。肉体の自己主張は以来盛ん過ぎる程絶え間なく、モーツァルトの音楽の如く流れ続けている。今もこうして物を書く僕の指は絶え間なく震える。此れはまさしく肉体の自己主張である。泣くという行為は僕の場合、素直に何かを拒絶することのみであり他には何も意味を持たなかった。詰まり僕の涙は甘えだの胡麻胴乱だのの為には流れぬ。頭に逆らう肉体の第一歩だった。僕はそういう自らの肉体をモーツァルトの音楽に例えつつこの書き物を進めよう。

 僕の肉体はずっとこうやって凡てのものを拒絶し、激しく震えつつも自己主張を続けると何時の間にか成長して居た。肉体の自己主張、僕の涙は紛れもなくその為のエネルギーだったと言える。僕は泣くという行為を表現に変えられなかったのであって、肉体はそれを押し出したのである。肉体は或るものに代わって、或ることを更には或るものを表現した。それは案外容易いことかも知れぬ。最近僕はそう考えて居る。僕等の日常生活の中によく体験するがピアニストの暗譜にて音楽を奏でる時手は頭に代わって音楽を覚える。手は頭よりも先にキーを叩く。モーツァルトの音楽はそうして叩かれたピアノの主題を主張する。主題の鳴った瞬間既に手は頭を支配して音楽は耳を越え歩き始める。二つの耳を髪に隠し涙の追い付かぬ程哀しみを疾走させたモーツァルトの音楽は、何だか僕の肉体に似ている。耳の反抗、耳の戯れ、耳の不思議な能力に就いて僕は考える。

 僕の耳も又このモーツァルトの耳同様に言い知れぬ程奇妙な耳である。僕は耳を動かすことの出来るのだった。今は動くかどうか分からぬが、幼い頃はよく皆に珍しがられたものだった。此れもやはり肉体の震えと苦痛からのものに違いなかった。けれども肉体の震えと苦痛は、当時それとは気付いて居なかったように思われる。詰まり僕の肉体だけではなく、皆も震えと苦痛とを耐えているのだと思って居た。そういう僕の肉体の反抗は、やがて自己主張になったのである。健康な肉体、病める肉体、そのどちらでもない肉体、友よ聞いてくれ。肉体とは一体どんな物なのだろう。

 友よ応えてくれ。アマデウスよ、君の音楽に僕は問い掛けているのだ。健康な肉体、病める肉体、そのどちらでもない肉体、それは果たして有形か無形か、君の孤独なお喋りの何処かに如何にも君らしい応えを用意してくれ。

 有形なる物凡て無形なる音楽の響きに鎮まれば好し。無形なるもの全て有形なる物を許した後に静まれば良し。この聖なる夜、僕は小さな蝋燭の炎に念じてみる。モーツァルトのあのアダージョに僕は自らの肉体を感じる。

 肉体の或る箇所にアダージョの鳴った瞬間僕は念じてみる。アマデウスよ、君の姿を見たいのだ。君の音楽に形は在るのか。君の孤独に形は在るのか。形は消える為に在る。だとすれば肉体は一つの形なのか。

 一つの形、生きている形、孤独という形、生命在る形、そして肉体、或いは形、それ等は皆形なのか。僕は今額の真ん中を貫く金色の針を見詰めて居る。この金色の針を見詰めると、何か時間というものも又形から生まれるような気もする。形から生まれる時間に就いて、モーツァルトの音楽は最も大切なことを語っていそうである。大切なことは彼の隠れた耳のよく知っていようけれども、それはハ短調『ファンタジア』に短いパッセージとして散らばっている。僕はこの『ファンタジア』に思い出を沢山持って居る。


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