八
歩いているのはモーツァルトの方でも僕等の方でもない。音楽の方である。肉体を求め肉体を愛し肉体に恵まれなかったのは、モーツァルトだけではないが、僕には何だか解るような気もする。彼の音楽は肉体そのものの中に帰ろうとする。帰ろうとして帰れぬ音の哀しみを、僕等はどんなふうに理解すれば良いのだろう。ヴァイオリンとビオラの為の協奏交響曲は肉体へ帰ろうとして帰れぬモーツァルトの哀しい歌である。
帰ろうとして帰れぬ音の哀しみに、僕は妙に魅かれるのは何故だ。人は誰も自らの哀しみや寂しさの全部を、誰かに解ってもらおう等とは思わぬ。人は人と分かち合えれば充分なのだろう。しかしモーツァルトはどうだろう。彼は真の友人等いなかった筈だが、彼と分かち合う人の数は数え切れなかったと云う。真の友人を持たぬ故に彼を真の友人にしてしまった人の大変多かっただけだと、僕は想うのだが。
モーツァルトという人は告白することよりも忠告することに長けた人だった。肉体に帰ろうとして帰れぬ音の哀しみはやはり僕等に忠告しているのだろう。確かに僕はモーツァルトよりも今長く生きては居るが、彼の音楽は常に何か僕の胸に与えては流れて行く。流れる音楽、幾つもの素顔から幾つもの表情の生まれるようにそれは僕の人生の生活という真実だった。サブという猫の最後の挨拶は僕に死を音楽に表現してくれたのだった。
あの時、サブはモーツァルトの表情をしていたのかも知れぬ。誰にも分かち合うことのなかったアマデウスの表情をして僕に応えてくれたのかも知れぬ。帰ろうとして帰れぬ音の哀しみを、僕に忠告したかったのだろう。
流れる音楽、幾つもの顔から幾つもの表情の生まれるようにそれは僕の人生の真実だった。
生活という真実、モーツァルトは紛れもなくこの言葉を自らに隠さずそれを堂々と生きた人に違いなかろう。生という或る瞬間、人生の生活という真実は確かに僕には美しいと感じられるのである。
人生は美しいとは言わぬ。けれども人生は美しかったとモーツァルトに言わせしめたものを僕は今見詰めて居る。モーツァルトは生きた。孤独の中に何時の間にかぽつりとモーツァルトの生涯は在った。何かを頼ろうにも何も無い場所に彼は歩く。歩く道さえ無い或る空間から空間へと、あたかも其処に道の有るかのように彼は歩く。誰にも増して肉体を愛した彼にとって、歩くということは道を歩くことではない。かと言って、道を創るのでもない。道は彼に因って、道であることを止めてしまう。
道はモーツァルトの肉体の一部となって音楽として生まれ変わるのだろう。肉体に帰ろうとして帰れぬ音の哀しみを辿って彼は己の道の在り方を歩いて行く。
道は生きている。道は呼吸している。道は彼の孤独なお喋りを聞いている。僕はそんなモーツァルトの孤独なお喋りに何時も生という或る瞬間を体験する。
孤独なお喋り、フランツは又むっくりと起きて来て僕の机の上に顔を洗っている。やはりフランツもモーツァルトの音楽に興味在るらしい。そしてフランツの肉体にも音楽は鳴っている。
フランツ、君の肉体にもう彼はとんでもない仕掛をしているかも知れぬ。肉体は生きている以上、一つの音楽の流れに結ばれ特殊な記号に因って動いている。その記号とは僕等の場合言葉である。けれども肉体を結ぶ音楽は肉体自体の生み出した言葉に等しく僕等の気付かぬ内に僕等の言葉と交わってモーツァルトの音楽を理解し受け入れようとする。ヴァイオリンとビオラの為の協奏交響曲のアダージョはそれに最も相応しく、人の言葉によく似ている。彼の君の肉体に仕掛けたのは、君のその見事な黒い毛並みに潜んだ小さな生命に流れる音を模倣した音楽。それを再び君の肉体の中に展開させようという試みに違いなかった。此れは僕の幻想でもなければ、比喩でもない。僕の日常に観る生活という真実だ。
肉体に帰ろうとして帰れぬ音の運命は、こうやって又僕等の肉体の周りを旅するのだろう。ヴァイオリンビオラの為の協奏交響曲のアダージョはまさしく人の肉体を信じた音楽だと言えそうである。彼の肉体を信じた音楽とは僕等の日常生活という真実のそのままを記憶する音楽のことだ。そのまま記憶するのはモーツァルトの記号化された音楽ならではの多彩な音色の深さ在ってのことだが、果たして音楽は音楽を記憶出来るのだろうか。記憶される音楽は、一端記号化された音楽であり音楽そのものではない。
出来事を記憶するには時間をそっくり覚えてしまって、其処から一つの出来事を探すということを強いられることだ。しかしモーツァルトの音楽は僕等の記憶した通りの箇所だけ響くのである。ヴァイオリンとビオラの為の協奏交響曲のアダージョはそういう神秘を含み乍ら僕等の肉体に記憶される。僕は僕の記憶したヴァイオリンとビオラの為の協奏交響曲のアダージョを今可成り熱い温度に思い出して居る。それは確かに切り抜かれた味気ないものとは違う。このアダージョの中にこそ僕の大切な思い出は在りそうだ。
音楽の中に包まれた記憶、それを在りのまま想い出そうとする時モーツァルトは何時も応えてくれる。記憶というのは全て完全に想い出せるとは限らぬ。否完全に記憶すること等人間には出来ぬ筈である。牟ろ記憶から欠落しているものを僕等は、僕等の頭の方に補わせようとする。そんな曖昧な不完全なる風景を僕等は思い出と呼んでいる。しかし音楽の中に包まれた記憶には、頭に処理出来ぬ処の思い出迄も呼び出すことの可能なのだろう。音楽の中に包まれた記憶とは何か奇妙な言葉だけれども僕の経験して来た限りこれは確かにモーツァルトの成せる技ではある。肉体に帰ろうとして帰れぬ音楽の哀しみはそういう僕等の大切な記憶を呼び帰すのだろう。呼び帰された記憶は又僕等の生活という真実に記されるのである。
僕はそんな音楽に、モーツァルトという希なる天才を感じる。そうしてモーツァルトという人の歌心を想うのである。
モーツァルトの個の哀しみ、モーツァルトの意の淋しみ、モーツァルトの命の美しさ、それ等に就いて僕は今精一杯感じて居る処だ。僕は既に彼よりも長く生きて居る。それは滑稽かも知れぬが僕に安心を与えている。しかしその安心感は、僕の気分次第に恐怖へと転じるから厄介だ。此の黒い椅子の上に例え僕の生涯の終ったとしても、僕はそんなにも不満ではないけれども僕はやはり僕なりの生を完全に全うしてから死にたいと思って居る。僕なりの生とは詩うことである。言葉をして音楽の中に一つの橋を架けること、その橋の片方を先ずモーツァルトに渡したいと考えて居る。
帰ろうとして帰れぬ肉体へモーツァルトの音楽は向かって歩く。肉体を渇望し乍らも決して肉体に留まることのない音楽は歩いて行く。
モーツァルトの個の哀しみ、モーツァルトの意の淋しみ、モーツァルトの命の美しさ。
肉体に就いて僕もあれこれと考える。もし肉体に真の自由の在るとすればそれは今僕の記憶を覆うモーツァルトの音楽ではなかろうか。肉体という真実、彼は案外賛成してくれるかも知れぬ。あのアダージョは、癒える者の歌ならぬ癒える肉体の為の音楽だったと言って良いだろう。
癒える肉体の為の音楽は、何時も僕等の脈のリズムから遠く離れては鳴らぬ。僕等の肉体は僕等の為に癒えるのではなく、肉体としての本能に忠実なだけだ。肉体はもう僕等から離れ孤立した記憶を持つ。そして肉体も又思考を始める。主張するにはしかし未だ肉体は理を持たなかった。主張を持たぬ思考、それ故に肉体は道無き道を歩く。
モーツァルトの音楽はそんな肉体に似ている。元より音楽の主張というものは無いに等しい。もし在るとすればそれは美へのレジエンドのみである。癒える肉体の為の音楽とはモーツァルト独自の独り歩き始めた記憶の歩調音のことだ。
歩調音、モーツァルトはそれを自らの音楽の原形だと考えた。ベートーヴェンはアレグロ楽章に最も工夫を凝らしたが、モーツァルトはどうだろう。彼のアレグロはベートーヴェンの工夫したそれよりも自然だった。アレグロの天才モーツァルト、けれども彼は牟ろアダージョにその紅い血潮を流したのではあるまいか。僕にはそう思えてならぬ。
彼の血潮はまさしく肉体を透き通らせる程早く流れ又純粋だった筈である。モーツァルトの書いた全てのアダージョに言えることだが人の耳の聞き取り得る限りの幸を秘めている。