七
僕の顔は時折、肉体の緊張に従い少し歪むらしいが普段は並の男前である。こういうことを書いて居ると何だか滑稽な気もするが今僕の机の上の黒猫の顔の変わったような気もしないではない。そう言えば猫にも表情は在りそうに思えてならぬ。しかし言葉を持たぬこの猫の表情に、言葉を見たとは言うまい。生という或る瞬間の言葉は肉体在るものには存在する筈だ。言葉は何かを伝える為の伝達方法ではあるけれども、言葉の役目はそれだけではない。肉体に記憶された言葉は肉体をあやすことも出来る。
モーツァルトの音楽は僕等の肉体をしなやかに愛撫する。その為には彼の肉体の全ゆる箇所に音楽は潜んでいなければならなかったと言えるだろう。肉体の全ゆる箇所に音楽を湛え乍らモーツァルトは何時も何か早口に喋り続ける。そんな孤独なお喋りは僕等の肉体を愛撫する。僕等の肉体は必ず幾つかの傷を持ちそれを庇うという動作に因って自らの生を実感する。
肉体の動作は、極く自然に日常生活の中に織り交ぜられているから僕等はその傷にさえ気付かぬ。故に動作は生きるということの内に入り込んでいる。しかしモーツァルトのピアノ協奏曲のカデンツァを聴く時、僕等の肉体は一瞬敏感になり凡てのものをノイズとしてしか感じなくなる。だから何気なく日常生活のままに流れていたものは、その音楽という澄み切った時間を通して見え或いは感じるのである。では僕等の肉体とはそんなにも感じ、そんなにも何かを見抜ける眼力の有ったのだろうか。現代人の肉体は次第に立派になり進歩しているが肉体としての真の力は薄れている。あのピアノ協奏曲の孤独なカデンツァは、僕等の肉体の野生を呼び帰し乍ら喋り続ける。あのピアノ協奏曲の孤独なカデンツァ、バレンボイムの両の掌の何と華麗なことだろう。
僕の書き物を度々賑やかにした黒猫フランツももう眠ったが、僕は未だ頭の上にあの孤独なカデンツァの鳴っている限り眠る訳には行かぬ。金色の針は僕の生在る限り数字を重ねるのだろうか。
鳴っているのは!鳴っているのはモーツァルトの魔笛の音楽、それとも金色の針の摩れる音だろうか。そうだフランツ、この音は君の肉体から聞こえる様だ。何も問わぬフランツ、何も語らぬフランツ、鳴っているのは!鳴っているのはモーツァルトの魔笛の音楽、君の肉体からの真の言葉かも知れぬ。
思えば生というものに就いて肉体の哀しみを知らされたのも、モーツァルトのハ短調『ファンタジア』とサブという猫のせいだった。サブという猫は灰色と白黒のトラ模様の小柄の猫だったけれども、僕の呼んだ声に始めて返事をした猫だった。僕の形の無い言葉に一度だけ応えて、サブという猫の息は絶えたのだった。
或る寒い夜明け前、バイクに跳ねられたらしいサブは僕の部屋に運ばれ僕の膝に真っ赤な血を鼻腔から流して死んだ。その瞬間やはりモーツァルトのハ短調『ファンタジア』の鳴ったのである。サブという猫の肉体は僕のよく聴いた音楽を記憶していたのだろう。形の無い言葉と形に別れを告げる時の、肉体との一点に結ばれた瞬間を僕は決して忘れぬ。あの時確かにモーツァルトの音楽は肉体に住み着くと気付いたが、その神秘に僕は今迄不思議だとは思わなかった。何故だろう。それはモーツァルトの音楽の堂々とあたかもそういう魔法を繰り広げて見せるからだろう。
モーツァルトの魔法、僕等にとってももう当然のようになった魔法とは神秘を神秘に感じさせぬ程の圧倒的な音楽の移し身の早さのことだ。しかし僕等の記憶出来ぬ早さではない。サブという猫の肉体の覚えていたのはくるくると転回する音楽の孤独なお喋りだと言える。孤独なお喋りは何も言語だけを指して言うのではない。転回する主題は駈け去っても、豊かな旋律は再び同じ場所を巡る。そして又孤独なお喋りに肉体を誘惑し乍ら旋律は僕等の肉体に住み着こうとして僕等の霊魂を誘い出すのである。誘い出された僕等の霊魂は皆、それぞれの肉体を暫く眺めてからあのサブという猫のように応えるのだろう。形の無い僕の言葉に応えたふうにそれぞれにそれぞれならではのものに応えるのだろう。展開する音楽に次々に生まれる短い旋律はおそらく、僕等の肉体を見詰められるようにというモーツァルトの愛情ではあるまいか。僕は何だかそんな気もして居る。
モーツァルトの愛情、僕等には本当にその言葉の理解出来ているのだろうか。僕等は何かを愛し乍ら、又愛され乍ら生きている。しかし愛というものは一体、僕等の解釈の届いているものなのだろうか。解釈出来ているのは例えばモーツァルトを愛するという極く単純な静止状態からの愛の形のみではあるまいか。けれどもこの僕等とモーツァルトとの間には何も動いていないとは言えぬ。其処に時間の流れている以上、僕等のモーツァルトへの愛は動いている。愛する事とは、愛するものの力に因って引き付けられることに過ぎず決してそれは愛することの全てではない。僕等とモーツァルトとの関係は互いに見詰め合うという愛ではなく、過去からの眼差しに対する僕等の敬意に等しい。過去から注がれた最良の愛は、僕等の肉体に記憶され思い出を巡りその幾つかのベルを鳴らすのである。それは深刻にパミーナを想い始めたタミーノをけしかけ、はぐらかしでもするようなパパゲーノのベルかも知れぬ。しかし真の音楽とは、そんなパパゲーノの道化の役も担わねばならぬ。そうしてパパゲーノは僕等の人生にも歌い掛ける。
モーツァルトはこのパパゲーノの声位置をテノールではなくバリトンと指定したのも『ドン・ジョバンニ』のレポレッロをバリトンとしたのと何等変わりはなかろう。詰まり彼の愛情に満ちた音楽は僕等の平凡な肉体を慰めようとしたが故に、人生の中の生活という真実に最も忠実だったと言える。バッハに因って人生の隅に追いやられ、ベートーヴェンに於いては完全に捻り捨てられた生活という真実はモーツァルトには音楽になり数多のバリエーションを繰り広げるのだった。
生活という真実は紛れもなくモーツァルトにも忠実だった。彼の自画像は幾つも在る、というようなことを僕はこの冒頭に書いたがおそらく彼の自画像というものは幾つも無い。自画像とは素顔に近くそして一番遠いものであろう。ジョバンニもアルマヴィーバもタミーノもティートも彼の表情の一部だったのだろう。こうしてモーツァルトは人生の生活という真実を真っ向から見詰めそれと仲良く生を過ごしたのである。
僕の部屋には肉体の価値を持たぬ時間の何と多いことだろう。
僕の人生はモーツァルトよりも今日長くなった処だが、思うに人の生活という真実はこれから僕に何を用意しているのだろう。凡てに飽きてしまったファウスト博士ではないけれども、僕のメフィストよ、さて現れるが良い。僕はもう黒い椅子に落ち着いて居る。
掌よ僕の掌よ、人生の生活という真実をもっと僕に見せてくれ。
青春は未だ去ってはいない。肉体は未だ老いてはいない。掌は未だ動いている。僕は未だ此処に居る。
僕は今日モーツァルトよりも長く生きたと書いたが、彼よりも長く肉体を所有したと書くべきだった。長い間といっても未だ半日だ。しかし僕にとって意外に大きな出来事かも知れぬ。
大きな出来事、それは幾度となく僕の人生を襲った。肉体は出来事を恐れた。
僕の生活という真実は先ず恐れることから始まった。
窓を、風を、影を、木の葉を渡り鳥を、そして何よりも時計のアラビア数字を僕は恐れたのだった。
肉体有る故に僕の神経は動く物を拒絶し始めると、その頃僕の耳はやがて音楽を欲するようになった。
動きを周りから排除した替わりに、耳は音の美しい動きを要求した。音の美しい動きはまさしく僕の日常生活から大半の恐れを取り去った。ベートーヴェン、マーラー、シューベルトと言った音の動きは僕の耳に大きな幸福を与えた。生活という真実はこうして僕の人生に始まった。
モーツァルトの音楽は自らの生活という真実から顔を背けぬまま創造されたものに違いない。故に耳に美しい動きになり肉体にも優しい。肉体に優しく響くことを予め指示されていた音の孤独な語り口は、やはり僕の肉体にも優しく哀しいお喋りを聞かせてくれる。
掌よ僕の掌よ、この響きの何と暖かなことだろう。鳴っているのは鳴っているのはモーツァルトの『協奏交響曲』アダージョである。このアダージョはベートーヴェンのあのカルテット「癒える者の歌」に共通する響きに因って何時も僕に語り掛けるのだった。ヴァイオリンの細く鋭敏な音色を、豊かな深いビオラは励まし乍ら支えると其処には一つの円錐の現れて、二つの音はゆっくりとその円錐を辿りつつ登って行く。
二つの音は何時か一つになることを互いに信じている。モーツァルトの音楽はそんな暖かな円錐に確かに貫かれたまま僕等の方へと歩いて来る。
青春は未だ去ってはいない。
肉体は未だ老いてはいない。
掌は未だ動いている。
僕は未だ此処に居る。