金色の針=独りぽっちの音楽

日比 工

   六

 僕はこの書き物の冒頭にランゲの描いたモーツァルトの肖像に触れたが、あの綺麗な唇からは考えられぬ程の早口に音楽は止めどなく流れる。それから気になるのは衣服の下の喉である。一体モーツァルトはどんな喉仏なのだろう。どんな声をしていたのだろう。僕等は今コンピューターシステムの発達に因ってモーツァルトの声を聞くことも可能だが何か物足りぬ。

 モーツァルトの声、どんなに美しいのだろう。美しい声、果たして僕等の期待していた通り彼の声は美しかったのだろうか。僕等はどうしても僕等の生きている時代のせいに、一度信じたことを直ぐに疑ってみる。これは入り組んだ人間関係に応じての僕等の頭の方の逆襲以外の何ものでもない。

 僕等の肉体は頭よりも物事を疑わぬから、素直に音楽を受け付けられるのだとすれば僕等の頭はこれから何を考えるのか。モーツァルトの音楽は僕等のそんな頭には入っては来ない。却ってそれは肉体に入り込む。おそらく頭の支配する記憶ではなく、肉体の所有する記憶にモーツァルトの音は鳴り易い。肉体の所有する記憶に鳴るモーツァルトの音も又一つの肉体を求めている。此の僕の座って居る不気味な形の黒い椅子もやはり肉体のアンバランスを保護する為に作られたが、僕等の頭の稔くれを保護するのは僕等の肉体かも知れぬ。

 僕は僕の肉体の含む容量の意外に少ないのを何時も不自然に思って居るが、物理的に考えれば僕の下半身は普通よりも半分程軽いから何も不自然ではないのだけれども何か不自然な気もする。それは良い。問題は僕等の頭とモーツァルトの肉体だ。

 頭よりも肉体に鳴り易い彼の音は今、僕の腹の中に見事に魔笛を奏でている。その魔笛の蒼い一本の煙を僕は気持ち良く吐き出す。煙は再び音楽となって、僕の知らぬ時空の森に孤独な喋り方に誰かの魂を誘うのだろう。モーツァルトの声はやはりこんなに美しい煙に似ている。僕は信じて居る。生という或る瞬間、僕はこういう魔笛に身を任せる。

 僕の肉体は今モーツァルトの音楽を欲して哀しんで居る。哀しむということをまるで日常生活の一部として覚悟したふうに、僕の肉体には苦痛ではないのだろう。苦痛と哀しみとは違う。日常生活の一部として覚悟したふうに、僕の肉体は音楽を生の或る瞬間に覚えている。モーツァルトの音、モーツァルトの孤独なお喋りはかって全く自然に僕等の思い出に深く浸入したことも在る。だから僕等は憶えている。

 ピアノ協奏曲第二十三番のアダージョの鳴ったのはどんな出来事のどの部分なのかを憶えている筈だ。記憶することを真剣に自覚しているのは、僕等の頭ではなく肉体の方なのだろう。けれども出来事等無いに等しい。在るのは記憶された出来事、すなわち思い出だけだ。僕等の肉体は産まれ生きて老いそうして確実に死んで行くのだが、その過程に於いて最も重要なのは思い出の想い出し方だ。

 肉体は想い出す。体験は数多の星々の如く無限に僕等に呼び掛ける。しかし僕等の生は余りにも短過ぎる。モーツァルトの音はそんな短い生の瞬間の為に鳴った肉体の思い出だった。肉体の思い出に付いて彼の音は敏感に反応する。僕等の聴くのはその敏感に反応した音の残響かも知れぬ。

 モーツァルトの肉体も決して立派な物ではなかったが、それは哀しむことを知り尽くしていたと言える。哀しむことを知り尽くし乍ら魔笛を楽しそうに奏でるモーツァルト、僕等はそんなモーツァルトに自らを委ねよう。委ねられた僕等の中の思い出は魔笛の音色を又新たに記憶する。肉体は想い出す。ピアノ協奏曲二十三番のアダージョの美しさは僕等の哀しむことを邪魔せぬ処に在る。

 生という或る瞬間に僕等は哀しく愉快な音楽を想い出す。其処にモーツァルトは何時も立っている。

 僕はもう二十年物を書いて来たが、何時迄経っても人生だの芸術だのと言ったテーマばかり追っているせいかなかなか表に出られず薫って居る。人生だの芸術だのという言葉に価値の無くなった時代であるのは確かだが人はそれぞれの心の中にこんな堅苦しい言葉を変容させているのだろうか。したがって僕のまだまだ未熟な文章の中にそれ等の言葉を読んでも、既に元の意味には返って来ないのだろう。言葉は段々忘れられて行く、変容した言葉の乱用に本当の言葉の無くしてしまったらどうなるだろうか。言葉[文字]に変容等僕は認めぬ。僕はそれぞれの言葉にそれぞれの音楽を記憶しているからだ。

 言葉は思い出を呼び帰しそれに僕等の歌うという行為を与え乍ら、肉体の音楽への執着を僕等に再度教える。モーツァルトの音楽も又僕等に肉体の音楽を想い出させる。

 生きるとは彼にとって肉体を愛することであって、何かを愛することではなかった。言葉は段々忘れられて行く、しかしモーツァルトは言葉を肉体に音として記憶させそのまま喋り続けるのだった。けれども彼は重なって行く数字を恐れる。ピアノ協奏曲第二十三番に現れては又隠れる一つの顔はそんな恐怖に耐えている。

 耐えているモーツァルトの顔、何だか奇妙なニュアンスの表現だが僕にはそういう彼の顔の見えるのである。ピアノ協奏曲第二十三番に見え隠れする一つの顔は、紛れもなく恐怖に歪んでいる。何よりもそのアダージョのピアノソロパートに独りぽっちのモーツァルトは散歩している。

 ダニエル・バレンボイムの演奏に僕はよくそれを聴くが、静かなピアノにアダージョの鳴り始めると僕は何時も僕の額を貫いている金色の針の気になる様である。やはり金色の針は動いている。絶え間なく確実に動いている。僕は目を閉じる。眼を閉じて音楽を聴く。その時、モーツァルトはピアノと一体になって僕に語り掛けようとする。生という或る瞬間に彼はピアノから僕を見詰めている。

 早口に何かを喋ろうとしてもモーツァルトの顔は一向に変わらぬ。二つの眼球も両の頬もそして形の良い唇も、何から何迄神経の行き届いている人間というものの清らかな顔はおそらくこの一枚の絵である。K氏の書く通り人前に、そんな顔の出来るものではない。これは間違いなく、何か途方もない夢に熱中する少年の表情をしている。顔と言っても色々在る。悲しさと楽しさ、しかし人の顔には実はこの二つしか無いように思われる。人の顔等二つの表情に充分だ。けれどもモーツァルトの表情はどうだろう。僕は時々それ等の表情を覚え切れず、閉口するが彼自身も自らの表情を全て覚え切ってはいないのではあるまいか。僕はふとそう考える。顔というのは果たして、肉体の一部なのだろうか。そうして表情は顔の一部なのだろうか。僕は人の顔に等関心は無い。しかし表情というものの何故在るのか解らぬ。顔に表情の在るのか、表情に顔の在るのか。それにしてもヨゼフ・ランゲの描いたモーツァルトは美しい。あの表情は真のモーツァルトに違いない。肉体の全ての箇所に神経の動いている音楽の化身だ。



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