金色の針=独りぽっちの音楽

日比 工

  五

 僕は昨日久しく乗らなかった電動車椅子にて四条河原町をうろついていた。建都一二〇〇年の青と黄色の旗の下を幾つも潜って行く内に僕は人の足の動きにモーツァルトを聴いた。電動車椅子に気付かず人の目は僕の頭の上を通り過ぎるばかりだったが、モーツァルトはそれ等の急ぐともなく急ぐ足の動きを哀しむように鳴ったのだった。

 確かにあの雪の日、エッシェンバッハの演奏したふうに聴いたのである。以来今も音楽は綺麗に輪郭を整えて、此の部屋に響いている。僕は音楽を連れて帰ったのだろうか。

 音楽は歩く。

 今僕の部屋を歩いているのは、音楽そのものの気紛れだ。モーツァルトではない。飽く迄輪郭の明快な我がままな音楽だ。音楽という肉体だ。それは電動車椅子の後を付いて来たのだろう。

 音楽という肉体、音楽は命在る肉体を想像し次ぎに鳴るべき音に又肉体の形を念じる。肉体は一瞬の間のみ姿を現す。そうしてモーツァルトの音楽は次の音へと繋がる技を心得ていた。

 音楽は歩く。紛れもなく音は肉体を想像しそれを支え乍ら歩を進めて行く。何処へ向かうのだろう。彼の音楽は遥かな未来に等向かわぬ。未来には例の真実の有るきりだ。何処へも行こうとせず彼の音楽は歩く。歩いてただ肉体を支えようと苦しい息をしている。

 ハ短調『ファンタジア』は歩く。しかしモーツァルトは歩かぬ。彼は僕の掌に腰を掛け自ら音楽の歩行を眺めている。肉体はどんな形をしているのだろう。僕には見えぬ。けれども彼には見える。彼の音楽に想像され且つ支えられているのは飛びきり上等の肉体ではあるまい。音楽から生まれ音楽に因って自由に歩行することを許され、そしてさまよう肉体の哀しみ。哀しむ為に歩き続ける。何時も同じ熱を持った肉体を僕も信じて居る。

 僕はこの世に生まれて今日迄肉体の自由を知らぬ。否、人間の肉体に本当の自由の有るのも僕には不思議なことなのである。その不思議な事実を、僕の周りでは誰も皆信じている。僕は何も皆の信じている事実を疑いたくはないが、ただ不思議なだけだ。けれどもそういう視点から言えば僕の自由になるのは、二つの眼の玉と右手の指先だ。それから脳味噌だ。僕の肉体の機能の全ては、此の眼と掌に集まったと言って良い。自分でもよく解らぬが、僕のモーツァルト体験はそんな動かぬ肉体を土台としたいわば音楽という肉体への憧れも先走っているかも知れぬ。無論先走った憧れだけではない。モーツァルトに対する僕の感謝を込めて書いている積もりだ。

 音楽という肉体は常に哀しく歌い、寂しく何かに追い詰められていた。生という或る瞬間にふと浮かんだ短い旋律、モーツァルトはそれを繋ぎ合わせたのではなく、その旋律を抱き締め乍ら快しそうに自らを物語ったのではあるまいか。人生の喜怒哀楽の殆どは音楽の生まれた時に、モーツァルト独特の早口に因って吹き込まれていたのだろう。

 魔笛を大切に奏でるタミーノのように、人生はモーツァルトの音楽に行き渡ってから音は独自の行動を見せる。彼の音楽は謎めいてはいない。ハ短調『ファンタジア』にも謎等隠れてはいない。リストやベルリオーズは音楽に映像を潜ませたが、モーツァルトは音に何も仕掛けなかった。音は純粋な音色に鳴れば良い。彼はそう願いそう信じた。だから彼は彼ならではの音を単純な旋律に置き代え乍ら、三十六年の人生をミューズに捧げたのである。何も隠さぬということは、全てをさらけ出すことではない。

 魔笛、此の僕の部屋は細いけれども頑丈な一本の笛の音に貫かれている。僕の額から三十五度の角度にそれは動かぬ。

 金色の針、金色の音、金色の憧れ、何時の間にか僕の肉体も貫かれてしまった様だ。僕の肉体の真ん中に冷たいものの貫いている今、僕は書かねばならぬ。冷たいもの、冷たく虚しい蒼く澄み渡った生という或る瞬間の流れを、僕は僕の宿命として書き記したいのだ。今を感じること、今を感じ過去を見詰め未来を思考すること。僕は今出来事を追っているのではない。音楽を僕の寂しさは追い駆ける。音楽は逃げはせぬ。音楽はしかし待ってはくれぬ。

 音楽は歩く。

 モーツァルトの生み出した音楽は歩いて行く。やがて不自由になる自由という名の命を生きる為に、モーツァルトは魔笛を奏でる。『魔笛』とは、音楽を時空に飛び交わそうとする彼の最大の目論見を実現した方法論のことである。そんな最大の目論見を果たして、彼は尚哀しむ。時空に飛び交う音楽の哀しみ、星に巡り月を慕う金色の哀しみに就いて僕は何かを書き記そうとしている。けれども僕は得体の知れぬ金色の或るものを恐れて居る。或るもの、僕の胸を貫き次第に動き出す或るものは僕にも哀しい。

 友達よ僕の友達よ、君の魔笛を聴かせてくれ。この世に最も優しいのは君の魔笛だ。君の音楽だ。僕の部屋には君の魔笛に浮かれて踊り出す者は独りも居ないがしかし、僕にはあの笛の音の必要だ。そうしてあの沈黙するハ短調『ファンタジア』の歩行する音楽も必要である。

 如何なる音もモーツァルトの大きな耳には鳴り響かぬまま彼は生涯を過ごしたと言えば語弊は有るだろうか。フェリクス・メンデルスゾーンを中継したモーツァルトの音楽はゲーテの耳に生からの死ではなく、死そのものの香気を感じさせた。

 メンデルスゾーンのどんなふうにモーツァルトを弾いたか知らぬ。けれども人間の耳というのは風邪をひくと普段の耳ではなくなり、余計なもの迄聞く。おそらくメンデルスゾーンは可成り高年のゲーテの前に、モーツァルトの初期ピアノソナタか何かをゆっくりと弾いて聴かせたのだろう。ベートーヴェンの音楽を聴き騒々しいと云ったゲーテは晩年、モーツァルトのピアノソナタをゆっくり弾かれてはその音符の間にメフィスト=フェレスの眼を余計に感じたかも知れぬ。ファウスト博士の見る夢の中では余りに死に近過ぎた。当時のゲーテにとって、メフィストの笑うのも神の笑うのも封印した原稿に充分だった。この静かに老いて行こうとする人の耳にはモーツァルトの音は音楽として繋がらず、和声に満ち溢れた樹木達の戯れだった。

 戯れ、しかしそれは世界の果ての或いは聞こえる限りの音の交換に違いなかった。間違いなくゲーテという大きな明るい魂はモーツァルトを聴くというよりも、モーツァルトの孤独な喋り方を理解したのではあるまいか。そういう点に関してはゲーテは僕等よりもモーツァルトを理解していたとは言えぬだろうか。喋り方とは孤独なモーツァルトの場合、先ず生という瞬間を生きることであった。生きることとは孤独に喋ることに似ている。

 ゲーテの耳はゲーテの頭脳にモーツァルトの音を響かせるに止まる。けれども頭は言葉を死への距離と共に咄嗟に理解したのである。メンデルスゾーンに因ってゆっくり弾かれたモーツァルトの音楽はゲーテの肉体と魂を切り放す。肉体を死へ、そして魂を時空の森へ誘ったと言える。

 時空の森には僕等の想像も出来ぬ静かな場所の在るに違いない。ゲーテを連れ去ったように、モーツァルトはアルベルト・アインシュタイン=Albert.Einsteinも其処に連れて来る。あの相対性理論はモーツァルトの音楽に助力を受けて生み出されたものである。モーツァルトの音楽も又自らの音符の相対性を何時も見詰めていた。物理学と音楽は一見何の関係も無い様だが、モーツァルトの音楽は実は音楽に無関係な場にも息をしている。ゲーテもアインシュタインもその音楽の中に自ら思考することを誘われた。快い音楽は決してのんびりと美しいだけではない。ゲーテもアインシュタインも彼の孤独な喋り方の表情をした音楽に、言い知れぬ物語を聞いたのだろう。

 物語は多分モーツァルトの孤独なお喋りに因って語り出され、次の音の生まれぬ内に鳴り終わるのだけれどもそれは余りにも切ない生という或る瞬間を宿している。


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