金色の針=独りぽっちの音楽

日比 工

     四

 掌よ僕の掌よ震えることは何も無い。動かぬということは決して虚しいことではない。掌よ僕の掌よ、この世の果てには停止した生という或る瞬間の在るだけだ。そして死だ。けれども死は生という或る瞬間に途切れた空間のことだろう。

 生という或る瞬間、それは死を感じることに始まる。モーツァルトの音楽はその過程に於ける最も清潔な体験である。人間の体験し得る限りの最も美しい生という或る瞬間なのだろう。

 死とは様々だがモーツァルトの場合、死は完全に息耐えることではない。彼の手紙に度々書かれる死は人の幸福に繋がり宗教的ではあるけれども、死は生を信仰する為の約束事に過ぎず生を経てからのものではなかった。次の音の為に鳴るのではなく自ら主張する為の音のように、モーツァルトの死は生を通過しなかった。生という或る瞬間に死も見詰めている、それこそ彼の音楽の特殊な魔力だった。したがって死は彼の音楽を愛した。死に愛された故モーツァルトの音楽は美しく透明だったのだろう。死に愛され死に親しまれた音楽、詰まりモーツァルトは生よりも、死と付き合い死と戯れたのだと僕は解する。解するということは全く無責任なことだが、物書きにはただ一つの解釈にすがらねばならぬという制約の有るから仕方あるまい。ただしその制約こそ物書きの価値である。

 横道に外れた様だが、モーツァルトもおそらくこのただ一つの自分なりの死に就いての解釈を音楽として思考したのだろう。思考したとはおよそモーツァルトには相応しくないかも知れぬが、彼の大きな耳は少なくともそんなことに気付いていた筈だった。音楽は音楽になる前に彼の場合、彼自身の死への呼び掛けだったのではあるまいか。余りにもnihilismに過ぎるが、僕の中のモーツァルトはそういうハムレット的モーツァルトである。しかし僕はむやみに彼をハムレットに仕立て上げようとは思わぬ。僕は僕なりのモーツァルト像を自由気ままに描こうとして居るだけだ。


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