金色の針=独りぽっちの音楽

日比 工

   三

 僕の初めてモーツァルトに出会ったのは確か雪の降る十一歳の晩冬だった。さらさらとした粉雪は窓硝子を弾いて僕の眼球から次々に遠ざかったあの朝、モーツァルトのファンタジアはトランジスタラジオのアンテナから聴こえたのだった。無論、それ迄モーツァルトは何度か僕の耳を訪れてはいたがその美しさに身震いしたのは初めてだった。それから暫くして僕はモーツァルトのそのハ短調『ファンタジア』のLPレコードを求めた。クリフトフ・エッシェンバッハの長い髪に絡まり乍ら、音は僕の脳天にゆっくりと回り続けていた。

 肉体の不自由故僕を囲う時間の速度は又気紛れである。僕はそんな時間の上にモーツァルトのハ短調『ファンタジア』を聴いて居たのだった。時間というよりもそれはターンテーブルの上のミクロコスモスだと言える。生という或る瞬間僕は沈黙するモーツァルトのあの『ファンタジア』の中に居た。詰まり動きの無い肉体には、時間の流れは流れとは感じず音楽自体の要する重量だった。しかし僕の少年期はそういう重量の下に金色の針をも刺されていた。何よりも細く何よりも正確な金色の針はけれども何時の間にか僕の肌に食い込み始めていた。

 モーツァルトの音楽はまさしく二つの道を同時に歩く性格を要し、知らぬ間に僕等の背中に挨拶して通る。僕もそんなモーツァルトの挨拶に後頭部を打たれたのである。何よりも細く何よりも正確な金色の針は、僕の額の真ん中にスポットライトのように今も息付いている。モーツァルトという人も此の増えるばかりの数字の悲しさに、人生を貫かれていたのではあるまいか。

 僕はハ短調『ファンタジア』の冒頭に鳴らさねばならなかった暗い音を聴く度に、数字を恐れるモーツァルトの姿を想像してみる。エッシェンバッハの力強く明快なピアノに響いたあの音は、或る魂の冷たい状態そのままを空気に晒した瞬間を感じさせる。

 さて僕は想像してみる。あのランゲの描いたモーツァルトは音楽ではなく手紙を書いている処なのだろう。手紙は父に何か告白している筈である。手紙を書くモーツァルト、僕はそういう彼にも在り余る魅力を認めざるを得ぬ。人は自らの内に変化の無い時に手紙等書かぬ。知らせたいこと等モーツァルトには希にしか無かった。ただ記憶せねばならぬことを父や母に書き送ることは彼の哀しみに就いて彼自身に思考を迫ろうからだ。

 一端言葉として書かれた彼の哀しみには時間の経過は避けられ、哀しみのかたちのままモーツァルトの記憶に収まる。こうして収められた数多の哀しみは、彼の創作に不調和な音を残したのだった。しかし不調和な音、すなわち彼の聡明な感性に歩行する能力。独立しようとする力を与えられた音符は次の音を待たず走り出す。音楽は音に追い付かず彼の音楽は常に追い駆けねばならぬ宿命を担っていた。宿命こそ彼の音楽を司る神だった。ハ短調『ファンタジア』に僕はそんな神を見る。

 僕の額を照らす金色の光の中に神はいるのだろうか。哀しみは神の周りを巡り乍ら、金色の針に宿ってモーツァルトの音楽を待つ。音楽は神をも目覚めさせ、そして神の重たい足を動かした。

 僕はその『ファンタジア』のレコードを何種類か持っているけれども、やはりエッシェンバッハのそれは僕にとって最も美しく輝いている。

 黒いタートルネックのセーターに筋肉の盛り上がった肩も印象に残ってはいるが、忘れられぬのはブロンズの長く真っ直ぐなエッシェンバッバの髪である。あのさらさらとした雪と髪とは僕にモーツァルトを運んで来たのだった。レコードジャケットから身を乗り出すようなエッシェンバッハの若さはモーツァルトを、僕の部屋に呼び寄せたのだろう。

 無論僕は生という或る瞬間にハ短調『ファンタジア』を何時も感じて居たのだけれどもその僕の掌の上にモーツァルトは立っている。声を掛ければ簡単に返事の返って来そうな気軽な表情の彼はもしかしたら途轍もないことを考えているかも知れぬ。それこそモーツァルトの宿命だったとは言い過ぎだろうか。ピアノ協奏曲の二十三番のアダージョにせよ宿命のカプセルの中身の何たるかを見分けた上、音楽に顔を与え哀しみに吐息することを憶えさせたのだ。

 吐息すること、哀しみの生まれた時モーツァルトの音楽は既に哀しみという吐息を含んで鳴るのだろう。立ち止まった小さなモーツァルトは石ころを蹴るように僕の小指をぽんと蹴って、それなり膝を抱え僕に親しげに話し掛ける。僕には肉体の自由は無いが彼にも、それは無かったのではあるまいか。自由の果てに有るものを彼は音楽のエコーに因って知り乍ら、それを吐息するように哀しむ。音楽は湖の底から帰ると彼に世の真実を告げた。告げられたのは金色の針に支えられた一つの真実に違いない。ターンテーブルを回す無数の星を繋ぐ一本の音は果たして世の謎なのだろうか。モーツァルトの聞いたのもその謎の不気味な応答であろう。

 僕の掌の上にやがてモーツァルトは思い直して笛を吹き始める。笛の音は既に一本の立ち昇る蒼い煙となって聴く者全てを幸福にしてしまう。詰まりそれは悪の象徴であり、闇の代表である夜の女王の持ち物の魔笛だったとは矛盾に思われる。しかしモーツァルトに聴こえた魔笛は僕等の勝手な解釈を跳ね除ける。彼の描き出したのは、善を生み出す為には自ら悪に変身するしかなかった女の本質でありアポロの前に跪くことを最良の役目だと信じたディオニソスのマゾヒスティックな欲望だった。善は悪の鏡の中の一部に過ぎず夜の女王の魅惑的な復讐のアリアはザラストロという太陽の化身に向かって歌われたのではなく太陽の裏側の何かに訴えられているのではあるまいか。太陽の裏側に放された歌声は殆ど悪を通り越した哀しみの愁いを思わせる。女王の悪はこの愁いに因ってモーツァルトに裁かれる。裁かれた歌は善と悪とを越えて、美の世界に許されるのだ。歌は裁かれた後一筋の涙となってモーツァルトの頬を濡らし、彼の音楽に帰って行く。それは単にアリアというべきものではなく、最も深く哀しむ一つの孤立した歌なのだと僕は想った。けれどもそんな魔笛の音はやはり蒼い一本の煙に見えるのは何故だ。

 こうして僕の掌は次第に世の真実に近付く。

 世の果てに有るもの、金色の針の先から動こうとせぬ音楽の美しさ、僕の額には未だ金色の氷針は相変わらず動いている。しかし僕の肉体は動かぬ。ただ僕の右掌はせわしくキーボードを叩いて、モーツァルトの音楽を感じている。ピアノ協奏曲二十三番のアダージョにはそういう動かぬ哀しみの匂いの発つように想われる。そうだ、僕の掌はこの音楽から生まれたのだと僕はふと考えた。


BBS(掲示板)

もどる