母、午前3時の  

日比 工 

  八 『僕は僕のピアノを漸く見付けた』

  
 僕の頭の方は特に異常はなく幼い頃の血の固まりが今では水になっているとのことだった。それは古いものなので心配は要らないと医者に云われたが、何だか優れぬ気分の儘帰宅した瞬間ふと僕の神経に触れたのは明るいオレンジ色の姫百合だった。母が死んでもう一年近く経つというのに、この玄関の姫百合の造花に気付かなかったとは不思議な気がした。僕の眼の高さに丁度合わせでもするようにその二本の姫百合は置かれていた。
 僕の眼と擦れ違った瞬間、この母の造った姫百合はほのかな香の中に在った。母の匂いだ、僕は咄嗟に哀愁の陰を感じて居た。哀愁の陰とは果たしてどんなものなのだろう。僕の車椅子がその姫百合の所を過ぎた瞬間、僕の背筋を突き上げたものが恐らく哀愁なのだろう。病院に頭を輪切りにされたあげくイエスのように張り付けにされた僕の肉体はそれでも華の匂いを感じたのだった。肉体の感じた儚い夢に僕はこんなふうに何時も魘されて居る。肉体が肉体でなくなった瞬間、肉体の擦れ違うもののことを人は魂と云うのだろう。母の肉体もそうやって何か肉体とは別個のものになったのである。母の肉体から確かに僕は産まれたけれども、この僕の肉体は母ではない。僕は僕であり僕という魂も又ここに存在して居る。然し僕の肉体が在る限り、僕は母に繋がって居る筈だ。闇が在りそうして又ここにも別個の闇が在る。
 僕は時折大きく胸を張り広げてその闇を吸い込もうとする。すると闇は静かに僕の肺に収まろうとする。収まって仕舞った筈の闇は、何時の間にか僕の背中を支えてくれている。あのオレンジ色の姫百合の造花はそう言えば何となくシューマンのピアノ協奏曲を含んでいそうに思われてならぬ。炎のように鳴り始めるピアノパートの冒頭が、今僕の頭を占領している。この激しく美しいピアノ協奏曲はシューマンの頭に己の肉の哀しみの、ゆっくりと解される頃書き上げられたものではあるまいか。それは何処迄も純潔である為に書かれたような音符だった。音符は堂々と揺るぎなく並べられ未だ汚れを知らぬ青年のように歩いて来る。闇等照らして、無くして仕舞い乍らピアノは力強く歩いて来る。シューマンは恰もその音符の動きに身を委ねてピアノを弾く。肉の哀しみが解される頃、紛れもなく音楽は彼に人生を教えた。人生の光と闇は精神の壊れて仕舞う寸前に、彼の眼の前にはっきりと分かれたのだった。始めて分かれた明と暗、僕もあの日そんな気がした。
 僕はあの日シューマンのピアノ協奏曲が突然頭に鳴るのを感じ乍ら、母の造った姫百合の匂いに身を任せて居た。明るいオレンジ色の姫百合は静かな歌を秘めて激しく美しいシューマンの音楽を僕に示そうとしていた。
 記憶からの言葉、ピアノという一筋の燻り続けた夢から立ち上る蒼い煙、そうしてやはりあのシューマンの孤独に満ちた音符に辿り着く意識、そうだ言葉よ少女に確かに伝えてくれ。僕は僕のピアノを漸く見付けたと。僕の見付けたピアノは如何にも孤独であり乍ら、実に身を焦がすような情熱を持ち合わせたシューマンという男の書いた音符だった。ピアノが音符を弾くのではなく、音符の方からピアノを創り上げて行く。シューマンのピアノ協奏曲は確かにそんな種類の音楽である。この協奏曲の中ではピアノの一つ一つの音色が全体を記憶している。記憶し乍ら旅をする。
 記憶するということ、僕等が記憶するということ、僕の見付けたのは記憶の中に在り続けたピアノかも知れぬ。編み物する母、舞踊する母、朗読する母、泣く母、笑う母、そういう母の中に何時の間にか僕は少女を見付けた。時間は流れ音が流れ、記憶は在り続ける。この窓の向こう、竹林には時間の流れが美しく一切なのだ。全てを語る必要はない。
 今日ミケランジェロの展覧会に招待され、電動車椅子にて一回りしてきたけれども、ふと僕の車椅子を止めたのは最後に展示された『ロンダニーニのピエタ』だった。実物の何十倍かに大きく作られたその未完成の彫刻は少なからず僕の興味を惹いた。心の沈黙が僕を襲った。それは然し陶酔に近い沈黙であった。
 心の沈黙する瞬間、ミケランジェロは恐らくこの最後の作品を創り始めたのである。僕は『ロンダニーニのピエタ』の周りをゆっくりと廻り乍らそんなことを考えた。心の沈黙は一段と深まった。
 汗だか涙だか知れぬものが僕の右掌の乾いた甲に落ちた。するとその乾いた部分が熱くなって何かを要求した。肉体の或る部分からの要求、僕は又母を感じた。母の掌を僕の右の掌は要求していた。肉体が母の思い出を欲している。僕にはそう想われた。
 涙が人生を伝わっている。僕の掌は震えるばかりだ。令子は机の上に手枕をしている。
 マリアが微笑んだ。
 時間は流れ音が流れ、記憶は在り続ける。 今午前三時である。



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