母、午前3時の 日比 工
七 『繰り返さねばならぬことへの嘆き』
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今もこうして書き物をして居ると障子一枚隔てた台所に夢見る少女の口遊む「トロイメライ」が聴こえる。愉しさ故に哀しい歌はゆっくりと円を造りやがて嗣子の立て髪の如く舞うのである。もう直ぐ一つ目の春が来る。あのトパーズ石の小さなオルゴールは一体何処に在るのだろう。あの「トロイメライ」は何処から聴こえるのだろう。あのトパーズ石の小さなオルゴールの中に息をしているのは独りピアノの前に佇む少女だった。
そういう愉しさ故に哀しい歌はあの夏の朝以来、僕の右の耳にリピートしている。リピートするということは決して退屈なものではない。想い出も出来事も全てリピートして構わぬ。僕にとってあの朝、体験したことは母との惜別であり、独りの寂しい少女との出逢いでもあった。少女は何時も大きなピアノの前に佇む。佇んで動かぬ。ピアノを弾こうとして少女の掌は震えている。動こうとして動かぬ少女は、やはり「トロイメライ」を口遊む。そんな「トロイメライ」は果たして何時か終わるのだろうか。リピートするということは停滞していることではない。僕の周りでは想い出も出来事も停滞しているのではなく、紛れもなく流れている。シューマンが頭の壊れた瞬間、身を投じたライン河のように僕の前を流れて行く。さて僕の頭はどうだろう。少々不安ではあるが言葉よきみが未だ愛しいのだ。きみ、僕の中のきみ、シューマン「トロイメライ」は何時僕の耳を去るのだろうね。想い出も出来事もリピートするが良い。リピートして尚響くが良い。
あの夏の朝母は死んだ。唯僕の言いたいのはそんな一つの出来事だった。然し言葉はそれを許してはくれなかった。言葉は最も美しい、と信じて居た僕に母は自らの死を以て問い掛けたのだろう。言葉に因って語られる物の美しいのか、言葉そのものの美しいのか、それはシューマンの音楽の世界にシューマン自身が行き場を無くした路であった。「トロイメライ」の端正な旋律は従って彼の数多の歌曲よりも人の言葉を含んでいるように思われる。音楽に因って語られる物の美しいのか、音楽そのものの美しいのか、彼の音楽は明らかに物語りを物語る為のそれではなくリピートする旋律が丁寧に折り畳む或る言葉の主張なのである。
この窓の向こう、竹林には時間の流れが一切なのだ。時間に就いてシューマンの思考は続く。僕の言葉は続く。そう母が言葉になる。言葉になるということは詰まり、物語りを物語る為の言葉を全て排除し乍ら最も美しい一点を表すことだ。時間と空間との間にもし記憶が在るのなら、言葉はその儘僕の記憶の中に育つだろう。孤独な言葉と寂しい竹林と、あの少女の口遊む「トロイメライ」の何とやさしいことだろう。僕は尚ピアノを弾こう。ピアノは何処迄も新鮮な響きを僕の記憶に流している。竹林にはやがて来る夏の初々しい息吹が立ち始めた。
あの夏の午前三時、僕は母に誓ったのだった。「トロイメライ」を口遊み乍らピアノの前に佇む少女を守ると。
言葉よ、僕はきみに母を委ねる。そうして又来るであろう静かな夏に挨拶しよう。然し僕は未だその少女の顔を知らぬ。少女も尚僕の顔を知らぬのだろう。ピアノが鳴り出す前に鍵盤から手を離して仕舞って、少女は再び佇むのだろうか。きみ、僕の中の言葉よピアノはもう僕の物ではない。誰の物でもなくなったピアノは、恐らく誰の物でもない「トロイメライ」を奏で乍ら今日も僕の窓硝子を鳴らすのである。窓硝子には竹林のざわめき揺らいでいる。
雨が降り出した。雨が降り時は過ぎて行く。けれどもこの瞬間こそ僕は母を想い出そう。母は何時もこんな夏の雨の夜明け前、僕の後ろの大きな窓を開けた。母は何を考え窓を開けたか判らぬが、淋しげな少女の表情は多分その瞬間母の顔に帰って来たのだろう。リピートするのは母の、僕の記憶の断片なのだ。シューマンの音楽がリピートするのも、実は僕等の認識した領域の中の壁に跳ね返った音楽の重なりに対しての僕等固有の思い出の応対しようとしているだけである。雨の雫も又窓硝子に跳ね返り乍らリピートする。単に繰り返しではない雨粒のモノトナスな時間に就いて僕は暫く考えて居た。シューマンはもしかしたら、そういう神秘的な時間の経過に己の記憶を結び付けていたように僕には思われる。人の頭に存在し続ける記憶というものの哀しみは繰り返さねばならぬことへの嘆きなのだろう。繰り返さねばならぬことへの嘆き、それは記憶することの不確かさよりももっと無惨なことかも知れぬ。
静かな夏の午前三時、やはり母は僕の記憶の及ばぬ所に行って仕舞ったのだった。
今日も僕は令子に付き添われて脳のCTを撮ってきたが無論機械の中に十五分も居れば正常な頭も段々おかしくなるだろう。あの時母もこんな薄暗い怪物の口の中にどんな夢を見ていたことだろう。然し僕の耳はそういう穴の中にも「トロイメライ」を聴いていた。
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