母、午前3時の  

日比 工 

  六『クライスレリアーナ』 その2

  
 母の居ないこの部屋に僕は尚、始まりそうで始まることのない一日を正確に空想する。そしてあの始まりそうで始まることのないものを想い出す。さてそれもやはりシューマンのピアノに似ている。ピアノ、母の掌はよくピアノの似合う掌であった。シューマンの音楽に僕の母はやはりよく似合うようだ。ピアノ、静かなピアノの鳴る夜、僕は母という名の秘め事に暫く旅をする。
 ピアノを弾く少女の頃の母、何と美しいのだろう。ピアノを弾こうとして未だ鍵盤に掌を触れずにいる少女の頃の母、躊躇いがちに鍵盤を見詰めるのは僕の母である。弾いてはならぬ。母よ、ピアノを弾いてはならぬ。僕の部屋はもうこんなにピアノに満ちている。ピアノに満ちた部屋の中に僕は又、言葉を唱おうとして居る。シューマンの音楽に似て母のピアノはやがて鳴るのだろう。清潔な少女の涙が僕の言葉を支えて、母になる。決して奇妙なことではあるまい。僕の部屋の出来事はそんなふうにして帰って来る。シューマンの音楽の中にリピートする旋律が決してリピートには聴こえぬように僕の部屋の出来事は流れて行く。編み物する母、舞踊する母、朗読する母、泣く母、笑う母、そうしてピアノを弾く少女の頃の母、ピアノの音はやはり僕には母だった。時間は流れ音が流れ、記憶は在り続ける。
 僕の生きて居る限り、出来事もやはりリピートに過ぎぬ。人生はリピートする。人生の出来事はリピートする。僕はニーチェの云う永劫回帰説をここに云々しようとは思わぬし、それ程深い意味を込めた訳でもない。大切なのはリピートした出来事が僕等の周りにどれ程の舞踏を繰り広げ、どれ程多彩に変容するかだけだ。シューマンの書き記した一つの旋律、或いは一つの音符の正体は何の工夫も無い唯の音符だが然し、それは時間の流れて行く上に変容し巧みに舞踏し乍ら僕等の前に出来事として通過する。通過する出来事、リピートする出来事、そうして母よ僕の唱う言葉を支えるが良い。出来事は又帰って来る。時間の流れは或いは、人生という音楽に等しい。ピアノを弾こうとして躊躇う少女は何時か、鍵盤に手を触れるだろう。ピアノは鳴り少女は何時か母になる。編み物する母、舞踊する母、朗読する母、泣く母、笑う母、母は果たして鍵盤に触れたのだろうか。ピアノの音はやはり僕には母だった。
 あの夏の午前三時、母は僕の中へ旅に出掛けた。母から少女へ更に少女から母へと。リピートする出来事、母よ僕の唄を支えて旅するが良い。僕の中の僕の母よピアノを弾こうとした母よ、僕の言葉に今日も生きてくれ。シューマンの最も似合う母よ、その「トロイメライ」の旋律の上に僕の涙を叱ってくれ。とは言え僕は何時も「トロイメライ」の旋律に支えられて居る。人生はリピートする。リピートして時間が巻き付き、そこに新しい出来事を刻み続けるのだろう。ピアノの音はやはり僕には母だった。
 母よ僕の母よ、あの朝から又幾つかの夜が来た。そうして夜はピアノになり、母の美しい両の掌を呼んで新たな朝に約束をする。新たな朝はそんなふうにして、僕の周りの未だ柔らかな時間に染みて行く。やがて頬杖を付き物想いに耽るシューマンの肖像が現れる。そしてピアノを弾き始める。ピアノ、その永遠の憧れは全ての夜と全ての朝に因って僕の中に育ったのだろう。
 言葉よ、きみの決して届かぬ処に僕はきみの真の姿を見たように、夜と朝との約束は親密であった。きみの決して届かぬ処にはピアノが在った。人の掌から生まれ、人の掌に育ち人の掌を中継したシューマンの音楽は僕の母の人生を知っていたと言えるだろう。そういう母の人生はもう母のものではなくなり、シューマンのものになったのかも知れぬ。何となく奇妙な比喩だけれども人生とは主人公の抜けた瞬間には終らず他の人生に身を移して息をするのではあるまいか。僕にはそう思えてならぬ。他の人生に身を移して息をする。母の人生は、或いはあのトパーズ石の小さなオルゴールの中に息をしているのだろう。「トロイメライ」の内に解放された僕の母の命は、或る時には少女となり突然ピアノを弾き出し又或る時は激しく『鏡獅子』を舞う。編み物する母、舞踊する母、朗読する母、泣く母、笑う母、そうしてピアノを弾く少女の頃の母、白い立て髪に華麗な円を描いたのはやはり僕の母だった。あのトパーズ石の小さなオルゴールの中に息をしているのは、僕の最も美しい母という体験であった。母という言葉であった。


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