母、午前3時の
日比 工
三のニ 青春の匂い
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竹林をぞんざいに刳り貫いたここ洛西ニュータウンだけれども、異様な程の生命力に満ち乍らも優しい静寂を称えた土地である。住宅地という言い方には凡そ懸け離れたその土地の条件は、電動車椅子に最適だった。当時僕は電動車椅子に乗り、この未だ未完の町を散歩するのを日課にして居た。運転を謬り田圃の縁に落ち込み後ろから来るトラックの運転手に助けられたことも、「ここから先は危ないから動くな」と云われて、広い庭に追い込まれ百姓に暫く監禁され鍬を構えられたこともある。
人の眼は己の見え易く理解し易い物を信じていると、僕はふと淋しくなった。静という瞬間と動という時間は何時も僕の中に極めて強く競い合い釣り合っていた。僕の中の二つの真実がどちらかに傾き掛けた瞬間シューマンの歌は聴こえたのである。
静かだった土地に突然出来た繁華街、然し竹林には未だ冷え冷えとした静寂を保ちつつ横たわっていそうだった。横たわった竹林、何もかもざわめきの中に隠して仕舞って又静まりかえろうとする竹林、僕はそこに己を感じようとして居る。
或る日繁華街のレコードショップに買い求めた一枚のLPレコードの中に僕の青春は潜んでいた。ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウのハイバリトンに歌われたシューマンの、二つのハイネ歌曲集は確かに青春の匂いがした。
シューマンの歌曲が僕に迫ったのはそれが最初だった。あのフィッシャー=ディスカウの冷たい迄に研ぎ澄まされた声の表情に、僕の青春はぐいぐいと押し上げられて来る、ピアノと声との闘いではなく結合でもない処に立ち竦む音楽の優美さ、その凄まじい時間の交錯点から誕生したシューマンの青春。肉体の精神に化すのは神秘ではない。寧ろ精神の鋭敏さに肉体が付いて行く。シューマンはそういう夢を見たかも知れぬ。ピアノと声との完全に独立した状態を彼は歌曲と呼んだ。
時間は流れ音が流れ、記憶は在り続ける。竹林には時間の流れが一切なのだ。時間に就いてシューマンの思考は続く。彼の肉体は思考する。思考は更に瞬間を放浪する。時間は流れ音が流れ記憶は在り続ける。青春はそんな在り方にシューマンを導いた。けれども時間は彼に肉体の地獄を教えようとしていた。肉体の地獄とは「どのピアニストにも優るピアニスト」を目指そうとして、胸張り広げていたシューマンには余りにも苛酷な現実を告げた。掌という肉体の紋章はピアノを弾くだけではなく、彼の人生の最も多様な物語を編み乍らもうピアノから遠ざかろうとしている。ピアノから遠ざかる地獄から見詰めたピアノは美しい。
幼い日に聴いたバルトークのピアノ協奏曲の見事なリヒテルの演奏以来、僕はピアノを愛して来たが然しあの時のピアノが僕の人生を貫こうとは思いもしなかった。以来僕の人生はピアノと親密な関わりを持つようになった。関わり、ピアノとの関わり、それは僕の肉体を離れ感覚を切断した故に許される憧れだった。肉体を離れ感覚を切断した故ピアノを弾くことへの想像は生まれるのだった。けれどもこの掌の動きは欠落している。ピアノは弾けぬ。僕の肉体は生まれ乍らにして自由が完全に殺ぎ落とされていた。殺ぎ落とされた自由とは肉体に減り込んで仕舞った時間のことだ。
肉体に減り込んだ時間は果たして本当の肉体の為の自由だったのだろうか。僕はピアノが弾けぬ。リスト、ショパン、ラフマニノフ、彼等はピアノのヴィルトゥオーゾだったが僕よりもピアノを愛したとは思えぬ。彼等は唯己の肉体に減り込む前に与えられた時間という宝を自由に代えて燃焼させただけである。掌、その肉体唯一の美なるものに就いて僕は再度考えねばならぬ。人の肉体の中に在って最も生き様を反映させ得る箇所は無論掌だと言える。他者の目に実は、最も触れ難いのも掌なのである。掌は全ゆる形を持つ。然し掌は沈黙し時間という宝を守ろうとする。僕のピアノはそういう沈黙の中に在る。あのリヒテルの弾いたバルトークのピアノ協奏曲は、何時も僕の夢に鳴っている。僕はピアノが弾けぬ。否未だ弾けぬ。この桜色の艶のある爪と、細長く非常に敏感な指とは紛れもなくピアノを夢見ている。
今もこうやってピアノという文字を何度も書き記すと、何だかピアノという文字の下敷きに鳴りそうな気がする。恐らくシューマンは毎晩のように、それに近い夢を見ていたのではあるまいか。シューマンは多分誰よりもピアノを愛撫し乍ら音楽を創った。ピアノに親しみピアノに魅せられ、ピアノに生涯を費やしたシューマンの音楽は人の掌を愛した。人の掌を愛したとは妙な言い方かも知れぬが彼の場合、ピアニストがピアノを愛するふうに人の掌を庇いつつ音符を書き記したのである。
人の掌を庇いつつ書き記されたシューマン独自の音符は、ピアノの魅力に惹かれた者全ての中にミューズを提供した。それはピアノに対するベートーヴェンの闘い方ではなくリストの冒険でもなかった。僕の言いたいことは彼にとって、ピアノとは生きることそのことであり、人生唯一つの手段だったということだ。
僕のシューマンに対する想いは無論ピアノという一つの単語に繋がっているが、僕にとってピアノフォルテとは人生の最も美しい或るものである。或るもの、あの不思議な或るもの、恐らく暖かく冷たいブルーローズ。