母、午前3時の
日比 工
二
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何物にも形等無く、人の眼に現れた瞬間に形は物に宿るのである。僕の動きを失った掌に触れた瞬間、形を宿したあの「トロイメライ」のオルゴールはその時から限られた空間にさまよえる一つのドラマとなった。ドラマは身に覚えの無い湖の底に辿り着こうとして母という出来事になる。僕の部屋を訪れ僕の心臓を取り巻き僕の静かな生を飾ったのは、語られることを拒絶したモノトナスな母という出来事だった。身に覚えの無い湖の底から、身に覚えの無いドラマは発ち現れる。僕の触った小さなトパーズ石のオルゴールは以来僕のドラマの一切れを所有している。小さなトパーズ石のオルゴール、あの「トロイメライ」の冒頭を繰り返し鳴らし続ける古いオルゴール、そういうふうにして僕は僕のドラマをこの部屋の凡てのもの達に分け与える。この部屋に在るものは従って一つ残らず、僕の体験した出来事を記憶して行くだろう。
僕は何時もこの「トロイメライ」の冒頭を聴く度に母の愛したあのロシアのピアニストの掌を感じる。僕の肉体の何処かにやはりあの大きな掌は一つのドラマとなって眠っているのだろう。何処に眠っているのか、僕にも判らぬが確かに大きな掌は「トロイメライ」の上に生き生きと動く。今は僕の自慢のボイスウォッチの側に大人しくしている。
静かなる午前三時、僕の部屋の午前三時、「トロイメライ」の鳴る午前三時、僕は独り午前三時を生きて居る。大きな掌は又動き始める。ラスコリニコフの斧を振り上げた瞬間の震える手、リストの有名な手形と、大洪水の後に暗闇を指す聖ヨハネの手、それ等は皆似ている。皆さまよえる哀しい手である。
僕の部屋の午前三時、僕は又物を書き始めたが、依然右眼に張り付いた木の葉は動いている。思考の妨げにならぬ程に「トロイメライ」の音楽を育むように木の葉自体も思考し始めるのだった。思考する幻覚、僕の部屋の午前三時はそんな時間の似合う空間だと言える。言葉よきみは僕の部屋の午前三時にシューマンという噎せ返る程の甘い香りを連れて来たのだった。あのロシアの大ピアニストの弾いた「トロイメライ」の音楽は如何にもシューマンの指示したテンポとは大きく外れてはいるが、離れるということはシューマンの音の持つ得意な性格の一つではあるまいか。シューマンから離れることが恐らく彼に最も近付くことに違いない。あのロシアの大ピアニストは充分に遠い処から彼を愛していたのだろう。
僕はあのロシアの大ピアニストの弾く「トロイメライ」を決して本物だとは言わぬ。然し偽物だとも言うまい。ホロヴィッツが四半世紀を経て諸国に帰り、モスクワにて行ったリサイタルのアンコールに選んだ「トロイメライ」は正しく大きく形を崩した「トロイメライ」だった。形を崩したからとは言え「トロイメライ」以外の何物でもなかろう。ホロヴィッツの弾いたのは本物でも偽物でもない「トロイメライ」だった。僕の掌はあの尖った指の大きな掌の「トロイメライ」を憶えている。
僕の部屋には先ず長い間眠り続けた多くの書物が山積みされ、更にそれに劣らず集められたコンパクトディスクも積まれている。最近視力の低下と木の葉の所為にして滅法書物を開かなくなったが、何処に何の本の在るかは成る可く思い出すようにして居る。繰り返し思い出す程、人の記憶のスペースは広くなる。けれども本は必ず僕の記憶した場所に在るとは限らぬ。ホロヴィッツの弾いた本物でも偽物でもない「トロイメライ」もホロヴィッツの記憶した或る瞬間の「トロイメライ」なのである。然しにも拘わらずホロヴィッツのアンコールに選んだ「トロイメライ」は最もシューマンの弾いたそれに近かった。僕はそんなことをぼんやり考え乍ら、明るい机の上に視線を投げる。
薄い黄色の机に右眼の木の葉は呼吸する。僕の前には可成り大きなスピーカーが置かれ僕は何時もそこにシューマンのドラマを感じる。語られることを拒絶し乍ら語られた数多くのドラマに僕はやはり、己の青春を見たのだった。己の青春、僕の静かだった青春、それは何時の間にか僕の部屋の午前三時に姿を現した。