第十四章
僕は時折此の部屋の何処かにベートーヴェンの住んでいそうな雰囲気を感じ乍ら、此の稿を進めて来たが彼の三十二曲のピアノソナタは実に単純にして生理的だったことに今になって気付いたのだった。生きとし生ける身の単純にして生理的な三十二曲のピアノソナタは、彼の老いて行くに連れて気難しく解釈を拒否するものではなくなった。
解釈を拒否せぬ故に解釈を無限に持った音楽は僕の最も愛するピアノソナタ作品一一〇の変イ長調である。『ピアノソナタ第三十一番』に対する僕の想いは何よりも深い。
ヴラジミール・アシュケナージの演奏に、僕は『ピアノソナタ第三十一番』を聴きつつ、何時も此の世の無情に就いて考えて居る。
世の無情、僕は幾度となくそんな得体の知れぬものの前に後退した。しかし後退はしたけれどもその得体の知れぬものの前に僕は決して平伏しはしなかった。平伏して仕舞ったら最後僕の細い足ではもう二度と地面に立つことは不可能だったからだ。此の細い両の足では最早発達した頭と上半身を再度持ち上げることは出来なかった。したがって立ち続けるしかなかった。僕には休むこと等出来ぬ。
迫り来る白い壁、解釈を拒否せぬ故に解釈を無限に持った白い壁よ暫し休ませてはくれまいか。良ろしい、僕は「今日」を確かに生きて居る。
空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕はふとそんな己の人生をベートーヴェンに告白する。
今流れている『ピアノソナタ第三十一番』第一楽章、モデラート・カンタービレ・モルト・エスプレッシーヴォは遂に解釈を許したがその音楽の形ははっきりとは見えなくなって仕舞っている。つまり解釈するということは一つの解釈にそのものを完全に委ねるということに過ぎぬ。
解釈は唯一つの枠の中にのみ有益な物を対象とせねばならず、解釈を拒否せぬ故に解釈を無限に持ったベートーヴェンの『ピアノソナタ第三十一番』こそ解釈を寄せ付けぬ彼の結論だったとは言い過ぎだろうか。
解釈が許されたということは解釈という一つの枠の解放されたということであり、解釈の一点の点を消して仕舞ったのである。単純にして生理的なベートーヴェンの音楽程、解釈を許し尚拒否する音楽は無い。随分回りくどい言い方だが、彼も恐らくそんなひねくった解説を『ピアノソナタ第三十一番』に書いていたかも知れぬ。
静かな冬の星降る夜、僕は既に『ピアノソナタ第三十一番』のアダージョ・マ・ノン・トロッポを想像する。解釈を拒否せぬ故に解釈を無限に持ったあの「嘆きの歌」を想像する。
ベートーヴェンの音楽はもう殆ど彼の生理的な音を中心として理を廃し、技巧から遠ざかった処に此の『ピアノソナタ第三十一番』のアダージョを生み出した。
彼のピアノソナタは全て捧げられた相手のはっきりしているが、しかし「嘆きの歌」と題された作品は何者にも捧げられてはいない。寧ろ彼自身の肉体から魂に捧げられたと言って良い。
肉体から魂へと捧げられた音楽は人の心の寂しさを宥めるように流れて行く。僕も今そんな音楽の中に此れを書き進めて居るけれども、何時の間にか涙の溢れそうだ。
解釈を拒否せぬ故に解釈を無限に持った『ピアノソナタ第三十一番』のアダージョは、何時も僕を感傷的にするのだった。
音楽に消化されて仕舞った解釈、静かな冬の星降る夜に相応しい旋律は恐らく、人間の聴覚の捉え得る限りの美しいアダージョである。
人間の耳は確かに野生的には衰えてはいるが、此の澄み切ったXマスの夜に或いは帰って来るのかも知れぬ。有りと全ゆる旋律を僕等の耳は聴き経験して来た。しかしベートーヴェンの「嘆きの歌」程に、人の神経を魅惑する旋律を僕は知らぬ。僕の眉間を打って恐らくは、遠い海に向かうであろう「嘆きの歌」はやはり肉体から魂へと流れる或る静かな時間に似ている。影よ僕の影よ、君に僕はその時間の流れを学んだ。
時間は檸檬の匂いのように上唇を滑って、束の間に鼻腔を通り背骨の頂点を涼しくする。涼しくなった僕の背骨は思い出す。
野生的な聴覚を思い出す。そんな僕の聴覚は音楽という野生に今宵も目覚めた瞬間、ベートーヴェンの「嘆きの歌」は突然聽こえたのだった。
僕は一段と己の周りに犇き合っているであろう生きものの孤独に興味を持つ。生きものの孤独、そうだ解釈を拒否せぬ故に解釈を無限に持ったベートーヴェンの「嘆きの歌」こそ生きとし生けるもの達の野生を呼び起こすだろう。
今突然窓を叩いて風は過ぎて行ったがその風をチロルは見上げる。チロルもやはり野生を思い出したのだろう。ベートーヴェンの肉体から魂へ捧げられた音楽は、チロルの孤独にも響いたのではあるまいか。此の束の間に過ぎて仕舞う「嘆きの歌」の哀愁極まりない旋律に僕はまさしく感謝する。
月は淋しく太陽は悲しく星々は寒い。
土は耐え湖は待ち静かな海は空を愛する。
迫り来る白い壁、空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、ピアノを弾こう。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
肉体から魂へ捧げられた旋律はどうだ。
ベートーヴェンは『ピアノソナタ第三十一番』の短く美しい旋律を記し乍らその老いを改めて知った時、己の心臓を始めていとおしいと感じる。そうして彼の眼は又天井を睨んだ儘動かなくなった。一旦、荒くなっていた彼の鼻息は正常に戻る。彼は再び呟く。
[覚悟は出来ている]
低くしゃがれた声だった。生きものの孤独に就いての彼の悩みは又頭を持ち上げる。彼にとって命とは嘗て生きていたものには無く今生きているもののことだ。
此の『ピアノソナタ第三十一番』の「嘆きの歌」と題された短い旋律に僕は魂の救済を何時も見出す。確かに「嘆きの歌」と題されてはいるがそれは、ベートーヴェンの生きた瞬間の彼の嘆きでありその嘆きは既に浄化された美しい音楽なのである。ピアノの前に黙して苦悩するベートーヴェンの音楽は譬え「嘆きの歌」であっても、僕等にとっては生きとし生ける為の逞しい友達となる。
生きとし生きる為に彼の全ての作品は創られたとは云い尽くされたことだけれども『ピアノソナタ第三十一番』に秘められた「嘆きの歌」のアリオーソは、僕に意志伝達の苦しみを思い出させるのだった。アシュケナージのピアノに聴く「嘆きの歌」の美しさは、その主張せんとする言葉の不自由に在る。
端正に進行するアダージョの上にアシュケナージの右手は如何にも時間を惜しむように置かれると、その一つ一つの音は歩行困難なメロディーを僕等の耳に届ける。次から次に過去の思い出になって仕舞うのを拒むようなメロディーに僕はベートーヴェンの音への愛を想うのである。
歩行困難な人は却ってその一歩を深く考え乍ら踏み出すが此の短く美しい旋律も又、僕等の耳ではなく心の中に深く思考し乍ら進行するのではあるまいか。
リズムの上を正確に歩くよりも肩を激しく振りつつゆっくり通る肉体の美しさ、それは紛れもなく肉体から魂へと捧げられた音楽だ。次々に過去に消えざるを得ぬ音の嘆きをベートーヴェンは遂に「嘆きの歌」として表し得たのだった。そういう音の嘆きの懐に彼は己の魂を託したとは言い過ぎだろうか。
『ピアノソナタ第三十一番』は生きものの孤独に最も忠実な時間を含んでいたのだろう。時間は歩行困難になって一つ一つの音をいとおしみ始めた瞬間、魂の救済の場になる。彼は又生きものの孤独に就いて考える。
静かな冬の星降る夜、空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、ピアノを弾こう。そして僕も風に祈ろう。
風は再び僕の頭の上を通り過ぎて行く。
ピアノの前に黙して苦悩するベートーヴェンの音楽は何時も僕の友達だ。生きとし生けるもの全てに対して彼は生きものの孤独を歌い続け、且つそれを教育し続けたと言える。否そんな言い方は止そう。
風は今何処に戯れているのだろう。
月は淋しく太陽は悲しく星々は寒い。
土は耐え湖は待ち静かな海は空を愛する。
チロルは何時の間にか長い尾に僕の溜息を感じ乍ら窓の外を眺めている。少し夜は白んではいるがまだ朝という時刻ではない。生きものの孤独はまだ僕の周りを去ってはいない。「嘆きの歌」も僕の耳にまだ歩いている。此の黄金の音色はやはり歩行困難な肉体のように僕の聴覚を歩いている。
迫り来る白い壁、又風に祈ろう。風は歩行困難な音楽という肉体に助力してくれるだろう。
影よ僕の影よ聞いてくれ。僕は一体こんな真夜中何を考えて居るのだ。何かを考えることは、僕の生涯に与えられた使命ではあるけれども、しかし時折それは無に等しいようにも想われる。無に等しい思考を僕は何故続けるのだろう。その無に等しい思考にベートーヴェンの「嘆きの歌」はゆっくりと近付いて来る。
次から次に過去の思い出になって仕舞うのを拒むアダージョは近付いて来る。
僕はそういう音楽の哀しみを素直に受け入れる。すると其処にベートーヴェンの哀しみではなく、彼の創り出した音そのものの哀しみが聴こえるのだった。それは途切れ途切れに鳴り乍ら、僕等の聴覚の上にのみ繋がろうとする。
繋がろうとする音の哀しみ、繋がることを望みつつもその一つ一つの音の響きは互いに他を寄せ付けずアダージョを歩いている。僕の無に等しい思考は此の繋がろうとする音の美しさに救済の場を見出すのである。途切れ途切れに鳴り乍ら、ベートーヴェンの「嘆きの歌」は僕の歩行困難を助けてくれる。
肉体から魂へ捧げられたベートーヴェンの音楽はやはり、僕の魂にも風を呼び起こしている。
静かな冬の星降る夜、風は今何処に戯れているのだろう。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
僕の魂の行方はどうだ。
チロルはまだ窓を覗いている。