第十三章

 ベートーヴェンのピアノソナタはその二十九番目の『ハンマークラヴィア』をしてピアノ音楽の頂点に至ったのは周知のことだが、彼のピアノに対する執着は寧ろ此の巨大なピアノソナタの中から生まれたと言って過言ではない。

 [私はピアノのために書いたのであって此れをピアニスト達のために書いた覚えはない]

 当時『ハンマークラヴィア』を演奏したピアニスト達の悪評に応えたベートーヴェンの言葉だけれども、それは確かに演奏家にとってかなりの技術を要せねばならぬ音楽に違いなかった。

 彼の愛したピアノの為の音楽とは必然とも偶然とも付かぬ音の誕生であり、繋がりであり響きだった。

 此の世に在るまじきピアノの為の音楽、時代という耳には聞こえ得ぬ人の歌声、ベートーヴェンは己の震えなくなった鼓膜を奮わせようとして結局は時代を疾走する音楽を僕等に贈り届けてくれたのだった。

 ピアノの為に、否人の手の為に創られた『ハンマークラヴィア』は尚もまだ、より深い沈黙の生む。作品一〇九のホ長調のピアノソナタは呼吸を誘うというよりも、人の肉体を流れる液体に似ている。若しかすると僕等は常にそんな液体を音楽と呼んでいるのかも知れぬ。

 空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕はふとそういう錯覚に陥って仕舞った。

 今再び十一度、眠っているチロルの野生的な大きな耳は地上に在る限りのテレパシーに役立つのだろうか。

 影よ僕の影よ、ピアノを弾こう。

 静かな冬の星降る夜、チロルという名の黒猫は一体何を夢見るのだろう。ピアノを弾こう。大きな耳の長い尾の小さな顔の黒い猫、正常だ。何よりもチロルの呼吸は乱れてはいない。正常なるもの。金色の眼の安らかな眠りに僕も何と愉快なことだろう。

 チロルよ僕に世の全てのテレパシーを聞かせてくれ。そうすればチロルよ、僕は君にピアノを弾こう。全ての生きものの肉体を司る白く透き通った液体の秘密を解かねばならぬ。それはやはりベートーヴェンが知っている筈だ。

 『ピアノソナタ第三十番』の第三楽章「歌うように、心の底から感動を持ちながら」と指定された音楽は恐らく生きものの孤独を奏でている。

 生きものの孤独、ベートーヴェンは誰よりもそれを理解した。そうしてその痙攣から美しい歌を数知れず歌った人である。正常だ。何よりもチロルの呼吸は乱れてはいない。

 迫り来る白い壁、チロルよ眠るが良い。『ピアノソナタ第三十番』は眠る君の上をゆっくりと通過して行く。通過した音楽は白く懐かしい季節のようにやがて此の部屋を満たし、生きものの孤独として僕等の霊魂に呼び掛けている。

 僕はベートーヴェンの黙する故に美しい此の神聖な音楽を己の声に歌いたい。黙する故に美しく静かな故に夢を見るソナタ形式を離脱した『ピアノソナタ第三十番』は、ベートーヴェンの初めて自由になった精神から生まれた純粋な呟きだった。

 彼は稀に見る精神の人故に必然として心に育てられたものにしか興味はなかった。モーツァルトやメンデルスゾーンとは異なり、彼は即興を殆ど信じなかった。綿密に正確に真剣に創られた音楽こそ彼の作品だった。にも拘らず作品一〇六の『ハンマークラヴィア』以、来彼の音楽は想像も付かぬ処に飛躍するようになった。聴覚は失われ身は老いさらばえても彼の頭の中の音楽はその時、彼の心臓辺りに迄下りて来ていた。

 形は排出され自由になったベートーヴェンの音楽は、何よりも先ず生きものの孤独を含んでいた。

 黙する故に美しく静かな故に夢を見る『ピアノソナタ第三十番』は紛れもなく、彼の日常生活の呟きだったかも知れぬ。

 僕はそんな彼の呟きを真夜中に聴き乍ら様々なことを考える。

 折々の孤独、月は淋しく太陽は悲しく星々は寒い。

 土は耐え湖は待ち静かな海は空を愛する。

 「歌うように、心の底から感動を持ちながら」と指定された音楽も或いは、滅法寒いのではあるまいか。

 チロルは今突然むっくり起き上がり、僕の後ろを見て直ぐに又眠って仕舞った。

 そうだチロルには此の部屋の白い壁に何か見えたのだろう。広い肩巾の太い眉毛の黒眼の少し上に付いたベートーヴェンかも知れぬ。或いはその言葉のきちんと当て嵌る僕の祖父かも知れぬ。広い肩巾の太い眉毛の黒眼の少し上に付いた祖父の顔を僕はまだ憶えて居る。チロルよ君は一体何に目覚めたのだ。しかし君は脅えて等いなかった。君はまるで優しい人に甘えるふうに金色の眼を前足に隠して眠って仕舞った。

 正常だ。何よりもチロルの呼吸は乱れてはいない。又しても、僕の頭にベートーヴェンの呟きは聴こえて来る。

 空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、生きものの孤独は尚美しく戯れていそうだ。

 月は淋しく太陽は悲しく星々は寒い。

 土は耐え湖は待ち静かな海は空を愛する。

 迫り来る白い壁、僕の仕事は此の壁に今日を記すことである。事件も無く出来事も無く「今日」はしかし僕にベートーヴェンの呟きを教えてくれた。それは黙する故に美しく静かな故に夢を見る『ピアノソナタ第三十番』だった。

 影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。

 あの遠い海は今は寒いか。

 あの澄んだ山は今寒いか。

 故郷はどうだ。

 白い竹林はどうだ。

 生きものの孤独はどうだ。

 そうだ僕には「今日」此の瞬間にしか追い駆けるべきものは無い。今此処を過ぎて行こうとしているその時間の襞に次々に顔を出す孤独にのみ、僕は興味を持って居る。

 僕は一段と己の周りに犇き合っているであろう生きものの孤独に興味を持つ。

 僕には見える。

 生きものの孤独は、あの星々の瞬きのように散らばっている。事件も無く出来事も無い僕の部屋に散らばっている。

 僕は確かに「今日」を生きて居る。

 ベートーヴェンもやはり『ピアノソナタ第三十番』を書き乍ら無数の霊魂からのテレパシーを受けていたのではあるまいか。そうしてそんな彼の応えは「歌うように、心の底から感動を持ちながら」と指定された幻想的な音楽だった。

 『ピアノソナタ第三十番』の第三楽章に於いて彼の歌ったのは、生きとし生けるものの常に保たれるべき孤独からの感動だと言える。

 孤独からの感動とは孤独を感動に換えることではない。孤独の中に己の肉声を以て唱うこと、その声に自ら感動することである。

 僕は正常な自分の声を知らぬ。生まれ乍らにして、喉の筋肉のコントロールが出来ぬ僕の声は一体どんな声なのだろう。眠りの為の夢の中にも僕は自分の声に話した覚えは無い。どういう訳か何かを喋りたいと思ったことも無い。

 僕には元より声という衝動の欠けているのかも知れぬ。

 声という衝動は人間の最も早く把握する本能ではあるけれども僕はまだそれを知らぬ。恐らく声は僕の喉を突き上げる前に、胸の辺りに溶けて仕舞う習性を担ったのだろう。胸の辺りに溶けた僕の声はしかし、僕の魂の力となりやがて言葉になった。

 言葉は果たして歌を歌えるのだろうか。

 空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕はこうして言葉に歌えと願って居る。

 ベートーヴェンの作品一〇九『ピアノソナタ第三十番』の「歌うように、心の底から感動を持ちながら」と指定された楽章はそんな僕の言葉に早くも反応している。ベートーヴェンの此の気迫に満ちた音楽を僕の言葉はどんなふうに舞うのだろう。

 静かな冬の星降る夜、チロルは何時の間にか僕の両足の間に丸くなったけれども、もう眠ってはいない。金色の眼を僕の顎に当て乍ら喉を鳴らすチロルよ、僕に何を強請っているのだ。

 折々の孤独、月は淋しく太陽は悲しく星々は寒い。

 土は耐え湖は待ち静かな海は空を愛する。

 僕は一段と己の周りに犇き合っているであろう生きものの孤独に興味を持つ。

 ピアノを弾こう。

 「歌うように、心の底から感動を持ちながら」ピアノを弾こう。僕は何時も思うのだが此のチロルも又深い孤独に慣れて仕舞って、生きものの孤独の愉しみ方を心得ているのではあるまいか。

 産まれて間もなく親猫の乳を離れ僕の部屋のベッドの下、牛乳とポークハムに育ったチロルの小さな生命に就いて想うのである。生きとし生けるものの悩みとは決して複雑なものではあるまい。

 深刻になればなる程それはきっと単純な孤独と化す。恐らくはチロルの金色の眼に、溢れる生きものの孤独のように端正な痛みになる。ベートーヴェンの最晩年に至って経験したのはそういう端正な痛みだった。『ピアノソナタ第三十番』の感動的且つ自由な音楽は、既に乾き切った僕の声という衝動をやはり掻き立てずには置かぬ。

 チロルよ君の金色の眼の中に、彼の最後に指定したピアニストへの要求は映し出されている。「歌うように、心の底から感動を持ちながら」こんなに細かく指定された楽章は、彼の三十二曲のピアノソナタの中でも取り分け珍しい。[私はピアノのために書いたのであってピアニスト達のために書いた覚えはない]とは言え作品一〇九の『ピアノソナタ第三十番』には、ピアニストへの願いの込められていそうだ。こういうことを書けば彼に部屋から摘み出されるかも知れぬが、やはり僕はピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとしてベートーヴェンの残した指示に感謝する。

 影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。

 あの遠い海は今は寒いか。

 あの澄んだ山は今寒いか。

 故郷はどうだ。

 白い竹林はどうだ。

 金色のチロルの眼は美しい。

 迫り来る白い壁、僕の声という衝動は果たして此の壁に何時跳ね返るのだろう。

 僕は一段と己の周りに犇き合っているであろう生きものの孤独に興味を持つ。チロルは僕の右の太腿にもたれて身体を舐めている。

 黒い背中に赤い舌、何と魅力的な何と不思議な僕の友達。     


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