第十一章
静かな冬の雪降る夜、僕のベートーヴェンへの思いは言葉に換え難いものになって仕舞いそうだ。そうなる前に僕は此の細やかな書き物を書かねばならぬ。彼の散歩した白い森は依然僕の眼前に公然と拡がっている。
僕は歩く。それにしても此の白は光なのだろうか、それとも闇の遥かな距離に対する僕の眼の錯覚なのだろうか。何れにせよ僕は何処迄も続くであろう白を見詰めて居る。今の気温は十一度、冬の真中にどうやら此の部屋も突入したようである。
十二月も半ば過ぎて肺の裏側には乾いた空気の音を発てて溜っている。からからと風車のような音の己の肺に有るのは些か不愉快ではあるが、此れは僕の幼年期からの冬そのものの音だった。
僕の肺に有るそんな乾いた小さな音は此の部屋の白い壁を這い登って再度、僕の記憶にやがてゆっくりとした時間として帰って来る。
迫り来る白い壁、空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、ベートーヴェンは此の部屋に又ピアノを弾き始める。ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとして、僕は再び白い森を歩き始める。
僕は歩き乍ら彼の変ホ長調ピアノソナタを聴く。
作品八十一の稀にみるドラマ性を以て書き記された第二十六番のピアノソナタ『告別』である。
もう晩年に近くなったベートーヴェンのそれは非論理的な音楽だった。作品七十八や七十九には全く無いドラクロア的なドラマの位置付けは後にリストやスクリャービンにさえ見られるような表題音楽ではあるまいか。
第一楽章『告別』アダージョ・アレグロ、第二楽章「不在」アンダンテ・エスプレッシーヴォ、第三楽章「再会」ヴィヴァーチッシマメンナ、こんなふうに各楽章に表題の付いたピアノソナタはまさしくベートーヴェンの生涯だと言える。
あたかも聴覚に別れを告げた彼の苦悩の溜息に始まる第一楽章を聴く時、僕の耳も又遠くなる。遠くなった僕の耳に鍵盤を静かに離れる瞬間の彼の手の脈の響くのである。遠くなった耳、ピアノの音も聴くことの出来ぬ手の美しさ、そして掌の痙攣。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
遠くなった聴覚の哀しみはどうだ。
静かな冬の雪降る夜、しかしもう直ぐ夜は去る。
雪はまだ、遠くなった耳の上に静かな音楽を重ねてくれそうだ。僕は今遠くなった耳の上にベートーヴェンの手を感じ乍ら『告別』のアダージョに心を捧げて居る。
雪はまだ降り止まず。僕は己の掌を見詰める。如何にも柔らかな掌、その白く震える筋肉の哀しみに就いて僕は考える。僕の掌はそんなにも哀しいのだろうか。影よ僕の影よ、此の掌の哀しみを拭ってくれ。
ベートーヴェンの『告別』というピアノソナタには、人の全てのものに対する告別の音楽の流れている。
僕は何も此のソナタのルドルフ大公との別れに際して創られたという事実を否定する気はない。しかし『告別』の第一楽章のアダージョはそういう事実を消滅させて仕舞って何かもっと深い告別の歌を想像させるようである。否想像させるのではなく僕等の感受性の方に、僕等の過去の別れの体験を思い出させるのである。
僕等の体験した別れの瞬間をベートーヴェンの音楽は模倣するのだろう。余りにも時間の観念を無視した言い方だけれども、僕は敢えて言い切ってみる。つまり僕等の体験した別れの瞬間は作品八十一のベートーヴェンのピアノソナタを通して又新たに僕等の懐に帰って来る。僕は今掌というものを媒体に再び体験して居る。
想い出は思い出さぬ限り想い出にはならず、人の心に有益ではない。彼の音楽は僕等の思い出そうとする想い出に晩年になるに連れて近付いて来る。したがって彼の音楽は僕等苦悩する者の父となり友達となる。
静かな冬の雪降る夜、僕は今遠くなった耳の上にベートーヴェンの掌を感じ乍ら『告別』のアダージョに心を捧げて居る。
僕は歩く。
ピアノの音も聴くことの出来なくなった彼の美しい掌を求めて僕は歩く。
僕は己の掌を見詰める。如何にも柔らかな掌、それは最期に残された僕の生身の肉体に違いなく、血は熱く神経も敏感だ。
母の柔らかな乳房、小さな黒いピアノ、百八つの縫い目の有るサインボール、タックという子猫の細い前足、机の上に置かれた洗面器の中の雪達磨、それ等のもの達に僕の掌は既に別れを告げたのだった。もう二度と僕の掌に触れぬであろうそれ等のもの達へ、僕は今ベートーヴェンの『告別』ソナタのアレグロを以て挨拶しよう。
ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとして、僕は此処に告別の意を記す。それ等僕の掌に触れたもの達は既に遠くなった出来事に静かな眠りを湛えていようけれども、僕は己の掌を見詰める。如何にも柔らかな掌、その白く震える筋肉の哀しみに就いて僕は考える。
ベートーヴェンも嘗て己の掌の細かい動きに音楽のドラマを見詰めたのではあるまいか。しかし『告別』ソナタには肉体の動きそのものに対する告別の記されている。
僕は何時もブレンデルの比類無い名演に『告別』ソナタを聴いて居るが、其処にはベートーヴェンの手の動きは無い。手の動きというよりも先ず、自らの過去に引き返そうとする感情を必死に押さえる力を感じる。
現状を生きよ、彼は厚い唇に唸るように呟くと大きな目を見開く。そうして又ピアノは力強くなり響くのである。紛れもなく此のピアノソナタは現状を生きる人の静かな歌声だった。歌声は音楽の下から地響きのように低く震えている。
聴覚のみに告別を告げたのではなく、彼は肉体との別離を宣言したのだった。肉体との別離とは彼にとって現状を生きる最善の手段に違いなかったが、それは又一つの孤独なる魂の悲痛極まりないドラマの幕開けでもあった。作品八十一の変ホ長調ピアノソナタには、彼自ら『告別』の名を与えたのだけれども恐らく、その名の通り此の世の全てのモーションからの別れを覚悟していたと言えるだろう。
此の世の全てのモーションは彼の興味をもう誘わなかった。
英雄ボナパルトの勇気有る戦いも、唯一人の身内の甥カルルの度重なる裏切りも彼には煩わしかった。それ迄ベートーヴェンの生み出した大半の音楽は自らの思想や哲学を訴える為に書かれたのに対して、此の『告別』の名を持ったピアノソナタは違う。
世の全てのモーションに飽きた彼の音楽はモーションを捨てて仕舞った或る魂の状態から創り出され、それはまさしく[現状を生きよ]という彼の心の声に忠実だった。以来彼の音楽は訴えることも饒舌に語ることもせず唯歌うことにのみ残された晩年を飾ったのである。
『告別』ソナタのアンダンテ・エスプレッシーヴォを聴いて僕は、何時もそんな漠然たる考えを頭の中に照らしてみる。
空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕も又此の世の全てのモーションを信じて等居ない。僕は己の掌を見詰める。如何にも柔らかな掌、ピアノを弾こう。それは最期に残された僕の生身の肉体に違いなく、血は熱く神経も敏感だ。
母の柔らかな乳房、小さな黒いピアノ、百八つの縫い目の有るサインボール、タックという子猫の細い前足、机の上に置かれた洗面器の中の雪達磨。
僕の掌はまだ、それ等のものの温もりを憶えている。やはり肉体との別離は僕の魂にも有り得るのだろうか。その時一体僕の掌はどうなるのだろう。
不相変肺の中にからからと音は聞こえている。掌は僕の肉体に最も近い魂の切れ端だとしたらどうだろう。
僕は歩く。
それにしても此の白は光なのだろうか、それとも闇の遥かな距離に対する僕の眼の錯覚なのだろうか。静かな冬の雪降る夜、しかしもう直ぐ夜は去る。
雪はまだ、遠くなった耳の上に静かな音楽を重ねてくれそうだ。今気温は十度。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
掌の静かな哀しみはどうだ。
僕は明日又モーションの無い端正なXマスイヴを過ごすだろう。そう言えば母はもう僕の部屋にXマスツリーを飾ってくれた。僕は今迄それに気付かなかった。
寒い夜である。