第十章

 観念としての愛をピアノに託したベートーヴェンは、其処に大自然への祈りを見出す。祈り、一人の女性を愛する故に彼は人の手の及ばぬ大自然へ祈ったのだろう。

 僕は三十代半ばに差し掛かって依然世に名を知られぬ物書きだが、あたかも僕の上に全てのものの孤独はのし掛かっているようだ。観念としての愛は孤独を理解することから初まる。しかし己の孤独のみを知ることではない。

 月と太陽と星々との、そして土と湖と静かな海とそれ等大自然の個々の孤独と対話を交わすことだ。

 月は淋しく太陽は悲しく星々は寒い。

 土は耐え湖は待ち、静かな海は空を愛する。

 静かな冬の雪降る夜、又しても白い壁は僕の眼を塞いで仕舞った。あたかも僕の上に全てのものの孤独はのし掛かっているようだ。

 ベートーヴェンの失われた聴覚を、凄まじい精神の嵐の後に訪れたのは愛するという孤独だった。

 月は淋しく太陽は悲しく星々は寒い。

 土は耐え湖は待ち静かな海は空を愛する。

 彼はそんな孤独を辿るようにピアノを弾く。『やさしいソナタ』と題して出版された作品七九のト長調ピアノソナタである。此の二十五番目のピアノソナタは『テレーゼ』ソナタ同様小さな優しい音楽だけれども、それはまさしく孤独そのものの響きを持っている。

 ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとして、僕は何時も第二楽章のアンダンテを夢の中に弾くのだが、どうしても音楽の懐の暖かさを感じぬのである。冷たい、何故か僕の指には冷たい。

 優しい雪は降り止まず。

 温度は再び十度、僕はまだそんな冷たい音楽の懐に折々の孤独を支えて居る。夢の懐に弾く冷たいアンダンテに支えられた折々の孤独は、何時の間にか僕の過去となって句読点の如く散らばっている。

 影よ僕の影よ、君は此の散らばった句読点のひとつひとつを小さな水溜りでも踏むように今も渡っているのだろう。何時迄もそうやって渡ってくれれば良い。

 ベートーヴェンのト長調ピアノソナタの優しいアンダンテは影よ、君のステップの為に配列されたのかも知れぬ。

 彼の書いたアンダンテの中に最も流動的な此の第二楽章は常に揺れている。

 揺れ乍ら呼吸するアンダンテ、ベートーヴェンにして稀にみる優美な舟歌である。『テレーゼ』ソナタのアダージョ・カンタービレとはかなり、趣を異にしたやさしいアンダンテはノイズを聞き入れなくなったベートーヴェンの耳元に多分鳴り止むことはなかった。

 彼のピアノソナタは一旦此処にヨゼフ・ハイドンへのバックステップを踏みつつも、健康的な古典を呼び帰そうとした。しかしそれはより多彩なロマンティシズムを含んでいた。パパハイドンの音楽はベートーヴェンの心の支えだったけれども、それと同時に彼の知らぬ間に彼をロマン派へと導いたのだろう。第二十五番の『やさしいソナタ』は僕にそんなことを想像させるのである。

 少し頭を先に進ませ過ぎたようだが、最近その頭の先に進むのに苦労して居る。こうして物を書き乍ら真夜中を迎えると僕の頭は勝手に思考を始め、肉体よりも遥か遠い所を急いで居る。しかし肉体を置き去った訳ではない。

 空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕の肉体は此の暗闇に包まれる。そうしてもう肉体は存在せぬ。

 光の無い所に形等在るまい。

 形とは光の形容に過ぎぬ。つまり僕は闇に包まれた瞬間、既に此の机の前には居ないのである。否しかし此の部屋に居る。

 灯りの届かぬ此の部屋の何処かに僕の頭は必ず何かを造ろうとして居る。

 形等構わぬ。在るのは人よりも少し活発な頭だ。

 肉体の有形に対して光は有効だが無形なる精神には闇が常に有利である。とは言え僕は闇に肖って彼方此方旅する程ロマンティストではない。僕は以前さすらい人シューベルトのことをかなりり書いたけれども、今は流離う暇は無い。

 僕はあの暗闇にベートーヴェンを訊ねる。

 折々の孤独と共に僕はピアノを弾いて居る。

 愛という孤独に雪はしんしんと降り止まず。

 僕は考える。孤独に就いて考えて居る。

 月は淋しく太陽は悲しく、星々は寒い。

 土は耐え湖は待ち静かな海は空を愛する。

 僕はどうだ、此の独りの物書きの胸の真中を貫いている孤独はどうだ。此処洛西の竹林の呼吸を認識した白い壁に僕は僕の記憶を預けたのだった。記憶は今壁に犇いて雪と共に降り止まず。しかしその雪も又僕の孤独の形容かも知れぬ。人の生も死も総てはそんな雪の結晶だとすれば人生はもっと愉快だった。

 雪はまだまだ降りそうだ。

 ト長調のピアノソナタのアンダンテは絶えることなく僕と壁との距離に降り注いでいる。僕の左の膝の痛みは以前よりも激しくなってはいるけれども、ベートーヴェンの『やさしいソナタ』はその痛みの中に吸い込まれて行く。

 僕の肉体の傷は音楽を確かに記録するようだ。音楽を覚え乍ら肉体は痛みをも吸い込もうとする。したがって痛みは音楽と化して肉体の一部にインプットされ、やがて僕の肉体は折々の孤独を持つようになる。動きの欠如している故に僕の肉体は頭の思考した様々なことを記録出来る。

 [からだで覚えなければ]スポーツマンのよく口にする言葉だが、僕の肉体にもそれは当て嵌るかも知れぬ。つまり、僕の経験した出来事(若しくは事件)は頭の記憶するのではなく、思考力とは無関係の所に記録され後になって記憶に呼び返されるのである。スポーツマンは身体に記録された体験のみを正直にその儘生身の動きに因って表現するだけだ。思考か行動かを云々する気は無いが僕もやはり表現することを目的として居るのである。

 思考することも行動することもそれ自体は目的ではない。何かを表現する為にどうしても成さねばならぬ生きものの条件だと言える。

 さて音楽はどうだろう。

 音楽は思考か行動か、そうだ音楽は生身の肉体の健康な心臓の音であり、その純潔なる魂の告白である。

 ベートーヴェンのピアノソナタ程生身の肉体の健康な心臓の音であり、その純潔なる魂の告白である音楽を示し得たものは無い。

 失明寸前のルノアールは段々と物の輪郭を描かなくなったと云うが、ベートーヴェンは聴覚を失って尚正確なリズムを音楽に打ち込み続けたのだった。

 ヴィーンの暮れて行く大きな窓を背後に彼は掌を左胸に当てると、何かにふと気付いたふうにピアノを弾き始める。

 己の心臓に最も近い音を彼は必死に求める。折々の孤独と向かい合った彼は独り降り止まぬ雪を眺めている。

 突然彼は立ち上がり獅子のように叫び声を発すると、風は窓を押し開け彼の髪の毛を後ろから前に靡かせ乍ら吹き過ぎる。

 折々の孤独、月は淋しく太陽は悲しく星々は寒い。

 土は耐え湖は待ち静かな海は空を愛する。

 静かな冬の雪降る夜、ピアノを弾こう。

 雪はまだまだ降りそうだ。

 ト長調のピアノソナタのアンダンテは絶えることなく僕の冷たい両の肩に降っている。

 寒い夜である。

 又しても僕の部屋はこんな寒い夜に対応する為の精神の熱さを蓄え始めたようだが、影よ僕の影よ此れはベートーヴェンの音楽からの振動なのだろうか。

 君よ教えてくれ。

 僕の思考の内に何時もベートーヴェンを呼び出してくれる影よ、僕は君の言葉を己の表現に著してみせる。

 常にこうして物を書いて居る僕には、彼の音楽は健康な肉体と精神との象徴だった。それはリズムとメロディーとの完璧な結合に因って音楽となり歩き始めた一つの人間像だと言える。

 肉体が精神と化し精神の肉体と化した一つの人間像はもう、白い壁の向こう迄来ている。ゲーテ曰く[古典派は健康体でありロマン派は熱病患者である]ならばハイドンという肉体を振り返り乍らベートーヴェンという病者は、或る特種な光学を八十八枚の鍵盤に当てその孤独なる生命を物語らんとしたのである。

 表現するということは彼にとって、八十八種の音を単に組み合わせる作業では無論なかった。自らの掌の熱さと冷たさとを八十八の音を媒体として永久に遺すことだった。

 掌の熱さと冷たさとは何時も彼の剥き出しにされた神経に世の出来事を告げた。

 僕は果たして彼の掌のそんなに敏感だったかどうかは断言出来ぬけれども、少なくともベートーヴェンの三十二曲のピアノソナタは全てに対して敏感だった。

 掌の熱さと冷たさとは僕の此の肉体にも様々な出来事を伝えている。折々の孤独、僕は考える。孤独に就いて考えて居る。僕はまだ真の孤独を知らぬのではあるまいか。何も無い部屋に総てを所有して居る僕の孤独は何かを失った孤独ではない。失って仕舞ってからの、言わば何かを造り出そうとする故の孤独である。ト長調のピアノソナタのアンダンテの無言歌的な孤独である。

 静かな冬の雪降る夜、僕は又ベートーヴェンの『やさしいソナタ』を弾こう。迫り来る白い壁、ベートーヴェンという人間像の歩いて来る白い壁を僕は今宵も迎え撃つ。

 何も無い部屋に総てを所有して居る僕の孤独は、紛れもなく彼と同じ種類のものだった。それは創造する者の孤独、病者の光学の照らした健康な孤独だ。

 寒い夜である。


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