第八章
記憶に現れた彼の秘密を僕等は、それぞれの思い出の上に飾り付け乍ら音楽を散歩する。そんなことを書くと如何にもベートーヴェンの音楽はロマンティシズムに満ちたもののようだが、決してそうではない。
[ベートーヴェンは最初のロマン派であり最後の古典派である]或る人の実に巧く云ったのを僕は何時も感心して居るけれども、正にベートーヴェンの音楽は意識的に創られた伝統を骨組みとしてなり立つリリシズムの響く肉体である。
音楽という肉体は常に古典派とロマン派とを兼ね備え、その両手を鍵盤の上に投げ出す。左手は古典派の基準であるリズムを堂々と刻み、右手はメロディアスな旋律を切々と奏でた。そして今僕の前に、音楽という肉体はピアノを弾いている。
空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、青春の途切れた歌物語は歌い継がれるのだろう。
作品九十八の連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』である。
作品番号こそベートーヴェンの最晩年に創られたことを示してはいるが、僕はそれをもう少し繰り上げて考える。つまり作品番号に従わず彼の青春の途切れた時、既に彼の部厚い胸の奥に此の歌物語は在ったのだと。
六つの短い歌からなる此の連作歌曲集は無類のロマンティシズムの流れているが、それは声部を指してのみ言えることではあるまいか。『遥かなる恋人に寄す』のタイトル通り、不滅の恋人と呼ばれた或る女性との恋愛を背景に作曲された六つの歌曲はその最終曲に至って、第一曲目の切なく甘いメロディーの再び帰って来る。
物語は時を経てあたかもその物語の生まれた処を回想するように又、僕等の心に響くのだろう。
僕は彼の恋人の名を知らぬ。しかしベートーヴェンは名を充分に意識して老いて行く名を記さなかったのだと思われる。
時の過ぎ去るということを予め操った歌物語はまさしく彼の秘密の詰まった宝物に違いあるまい。其処には時間等無いに等しい。
在るのは唯不滅という名の恋人と雨と風、そうして音楽の神だけだった。
僕は何時も此の連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』をディートリヒ・フィッシャー=ディスカウとハルトムート・ヘルの演奏に聴くが、それは見事にベートーヴェンの想像した時間と空間とのドラマティックな演出にしたがって進行する。
雨は不相変降っている。僕の周りにも時間と空間に従った雨と風、それ等は青春に就いて遠くなった物語を歌っている。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
不滅の恋人はどうだ。
僕の、僕の恋人もやはりそんなふうに歌物語をねだっているのだろうか。
僕は今恋をして居る。
幾つかの著書に花を添えた何人かの女性の顔、もうはっきりとは覚えて居ないけれども僕はしかし、女性達の姿を憶えて居る。
肉体の自由の欠落した十六歳の僕は、当時家庭教師に来ていたM氏に紹介され、十四歳の少女と文通を始めた。それ迄異性と付き合う機会の無かった僕は、その娘から送られて来る淡い青や薄紅の手紙を心待ちにして居たのだった。
ジェームス・ディーンとジェームス・ボンドの話題ばかりの横書きにぎっしり詰まった手紙に、僕はジェームス・ブラウンやハリー・ジェームスの話題のみに応えて居た。此の奇妙な文通は、けれども僕に恋愛という言葉を気付かせたのである。
以来僕は絵里という娘の手紙に、正面から応えたいと思った。否、少なくともそういう知識を得ようと努めた。
極普通の女子中学生の絵里にとって僕は、気難しいペンフレンドに過ぎず僕はそんな彼女の僕に対する好奇心をそれ以上掻き立てることは出来なかった。
結局、僕の方から一歩踏み出した恋愛経験は、彼女の高校受験の為の多忙に因ってその頁を繰らざるを得なかった。当時彼女の顔を全く知らなかった僕は、そんなに落胆した訳ではないが心持ち残念だった。
それから五年後に絵里は突然此の部屋を訪れた。しかも、十九歳の成熟した女性として訪れたのである。あのお茶目な横書きの細かい文字からは想像も付かぬ美人だった。
[Hくん久しぶりね]
彼女の喋り方に僕は、五年の歳月の不調和を痛感した。一体年月の長さを信じれは良いのか、それとも彼女の顔を知らなかったという事実を信じれば良いのか。
歳月の長さと短さに人生の不思議は潜んでいそうだった。しかし僕はその時Yという女性に興味を少なからず抱いて居た。
Yという女性は何時も笑みを絶やさず僕の世話をしてくれたのだった。Yに出会ったのは僕の二十歳の夏だった。
或るボランティアサークルの主催するかなりり大掛かりな琵琶湖キャンプに僕は参加したが、その時Yは僕を始めて琵琶湖に泳がせてくれた。日本人に珍しい体格のYは十八歳だったが、最も完成された肉体を持っていた。
迫り来る白い壁、今其処にYの美しい肉体は現れている。君の完成された肉体に僕の青春は目覚めたのかも知れぬ。
静かな冬の雨降る夜、Yの肉体は異ように輝いている。君は又僕の正常なリズムを乱し始めているようだ。
雨はまだ正確にリズムを打っている。
均整の取れた完璧なYの肉体を黒い水着に露に見た僕は、初めて異性の匂いを己の生身に感じたのだった。
あの時僕の身体はYに支えられて琵琶湖の波動を受け乍ら、大勢の人の輪の真中に浮かんで居た。同時に、初めての女性の匂いを大勢の中に感じねばならぬ恥じらいは青春特有の甘い苦痛ではなかった。
その夜Yは僕の食事を介助したが、家族以外の者の手から食物を口に運ばれたことの無かった僕は少し戸惑った。何の食事だったかは忘れたけれども、それを口に運ぶ度に僕の顔に近付く彼女の唇を憶えて居る。
近付いたかと思うと遠ざかるYのきれいな歯を眺めつつ僕は、彼女に運ばれるスプーンを不器用に噛んだ。
黄色のテントの裸電球の下、僕の青春は重い歯車をゆっくり回し始めていた。ベートーヴェンの嬰ハ短調ソナタの速度にテントの中の僕はYの女性としての匂いを体験したのである。
Yという女性の一七三センチの肉体は僕に青春の長さと短さとを告げた。
Yは以来幾度か此の部屋を訪れ、あの親しみ深い笑みときれいな歯と見事に洗練された肉体とを、僕の青春期に残して何時の間にか姿を消したのだった。それから僕は何人かの女性を愛して来たが、今も或る女性を愛して居る。
竹林の向こうに舞い踊る人魚姫よ、僕は君をもう抱く術を知らぬ。
そうだベートーヴェンも確かに君に恋をし、君に何度も接吻して君を抱き締めようとした。しかしベートーヴェンは君を独占しなかった。
君は自由奔放に彼の周りを駆け回ってやがては、彼の手の届かぬ所に行って仕舞った。それ以来君の名は音楽になりミューズになった。
連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』に折り込まれた神秘なる時間の回帰は、君を抱き締め得なかったベートーヴェンの嘆きの唱かも知れぬ。
ドイツ歌曲史上に連作歌曲集という新しいジャンルを繰り広げた『遥かなる恋人に寄す』は演奏時間にして約十四分程度だけれども、その中に含まれた六つの小さな歌曲は微妙な時の動きの物語られている。
それは紛れもなくベートーヴェンという独りの大教育者の恋愛体験であるにも拘らず、人間の永久の問題を音楽として解決せんとした作品に思われる。
I・ヤイテレスという無名の詩人の詩をテキストに用いた此の連作歌曲集は言葉の飾りとしての音楽は既に無い。音楽の持っている人間の内面的言語に対して詩は、言葉の形を与える為に使用されているに過ぎぬ。つまりヤイテレスの詩はベートーヴェンの音楽の中の内面の言語を形として引き出す為の肉声であれば足りる。
肉声は意味ではなく音楽的言語を人々に伝えれば良い。此の世に最も美しいのは人間の声に因って歌われた個々の願いに違いあるまい。連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』にはそんな彼の課題の込められている。
迫り来る白い壁、僕は此の壁に何とか己の声を響かせたいのだ。声を響かせる、果たして絶え間なく押し迫る白い壁に、僕の喉を微かに振るわせた声は響くのだろうか。しかし僕は此の掠れた小さな声に歌わねばならぬ。
僕の内面言語は今既に言葉としての形をもって僕の口の中に生まれた。ベートーヴェンの連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』も恐らくはそうやって歌われるのだろうけれども、僕の内面言語はどうだ。言葉という形として生き残る力を僕は与えただろうか。
静かな冬の雨降る夜、僕は再び言葉の形に就いて考えて居る。
影よ僕の影よ、言葉は時間の残り灯だとしたら僕はそれを捉えねばならぬ。フィッシャー=ディスカウのバリトンに聴いた『遥かなる恋人に寄す』に僕の青春は甦り、風と共に冷たい闇の中を遡る。
恋愛、友情、純潔、憎悪、嫉妬、倦怠、出会いと別れ、そうして再会、僕の青春はこんなにも多彩だった。
思い出す程鮮明な風景に浮かび上がったのは、僕の遥かな恋人だった。
風は疾くに絶えた。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
内面言語の風景はどうだ。
迫り来る白い壁、窓には漸く雪の舞い降りているようだ。ベートーヴェンのピアノはその雪を歓迎して少しは高鳴っている。
僕の遥かな恋人との距離に、純白の雪はやがて積もるだろう。
絵里という娘もYという女性も白い雪の向こうに、鴎の一羽根のように小さく丸まって仕舞う。
寒い夜である。