第七章
空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、過ぎて行く時間に就いて僕は又考え始めて居る。
時間は過ぎて行くのではなく、僕等の意識の動いているのだとしたらどうだろう。時間という水の面に、僕等は必死になって漕いでいる。漕がねば僕等の舟は沈んで仕舞う。僕等の握っている意識の櫂は僕等を生きものとしての未来へと運ぼうと、漫々と停滞している時間を漕ぐのである。
僕等は生きようとすればする程に、此の櫂は静かな時間の面を掻き乱す。掻き乱された時間の方は僕等の櫂に作られた小さな波を、やがて津波として返して来る。つまり、生きて行くとは罪であり死を明らかに覚悟した旅のことだ。
旅は何時か終る。
舟は何時か波に打たれ僕等の肉体は時間の水底に横たわる。水底に横たわった肉体は、あのアウシュビッツの死体の山のように醜くはない。生きものとして生きた肉体は時間に因って罰せられてはいるが、時間はそんなに残酷ではない。
時間は優しく人の肉体に歴史という名を与え乍ら、又満々と満ちるのだろう。しかし此の部屋は津波等起こらぬ。
僕は確かに生きては居るが生きて行こうとは思わぬ。人生は生きて行く必要のない人生だった。動くことを全く拒絶した僕の人生は時間を掻き乱すことはなかった。時間は此の部屋に満ち、それは何時も歴史という名を以て全ゆる変奏を繰り広げた。
影よ僕の影よ、君も幾度かその変奏に因って姿を換えて僕の前に現れた。
僕は家族と共に、此の洛西に越して来て十三年になるが時間は常に僕の味方だった。以前濃い緑色の暖かい壁の部屋に、僕は様々な夢を見て育ったけれども此の部屋では夢は僕の肉体を通り抜けて行った。何故なら此の部屋の白い壁に僕の夢は逃げて仕舞ったからだ。白い壁はそんな夢の代わりに時間という静かな水底を提供した。
以来僕の青春は此の部屋に拡がった。青春、その明と暗も又白い壁にのみ訪れたのだった。
静かな冬の雨降る夜、此処に停滞するのは何時も通りの大いなる記憶である。
風は三度窓の近くを飛び発つ。
雨は不相変降っている。
雨はもう直ぐ雪になるのだろう。
ベートーヴェンのピアノは又、僕の周りを取り巻いて時間の水底を遊泳している。生きて行くとは罪であり死を明らかに覚悟した旅のことだ。ベートーヴェンはそれ程の厭世主義ではなかったが、僕のそんな言葉には頷いてくれるだろう。
迫り来る白い壁、今尚十一度、こうして僕は尚物を書いて居る。
僕の意識ははっきりしている。
寒い夜である。
僕は此の部屋に、静かに生きて居る。静かに今宵も白い森を歩いて居る。洛西の深々とした竹林は紛れもなく、僕の青春の送り火のように揺れている。
青春僕の青春、竹林に揺れているのはたった今過ぎて行った僕の人魚姫だ。
そうだ影よ僕の影よ、あの霧の架かった竹林に僕は己の青春を葬ろうとして居る。
恋愛、友情、純潔、憎悪、嫉妬、倦怠、出会いと別れ、そうして再会、僕は此処洛西の竹林にそれ等青春のセレモニーを知ったのだった。
静かな冬の雨降る夜、己の青春を爽やかに惜しむのも良い。
青春という言葉に最も縁遠いと思われがちのベートーヴェンは、実はその青春を大切に思い出していた。「ハイリゲンシュタットの遺書」に痛烈な人生の痛みを綴り乍ら彼は、自らの死を見詰め青春を認識したのだろう。「ハイリゲンシュタットの遺書」の背景に彼は彼の心の中の天使に激しい接吻を求めていた。
僕はあの痛切な「ハイリゲンシュタットの遺書」の安易に書かれたとは決して思わぬ。唯青春とは何かを懸命に問い掛ける時の若者の心に見える天使のことだとすればどうだ。若者はその天使を見詰める。見詰められた天使は若者に青春という接吻を与えるのである。
ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」は死を決意した故に見えた天使の接吻だったとは言えぬだろうか。
恋愛、友情、純潔、憎悪、嫉妬、倦怠、出会いと別れ、そうして再会、ベートーヴェンは暗く冷たい部屋に思い出す。
彼は「ハイリゲンシュタットの遺書」を思い出す。
生きていることの不思議を感じ乍ら彼は又ピアノに向かう。作品五十七の第二十三番ピアノソナタヘ短調である。
『熱情』と題されたソナタの第一楽章アレグロ・アッサイは『ワルトシュタイン』の始まりとは全く異なり、あたかも麻痺した呼吸の状態を示し乍らデモーニッシュな旋律を繰り返す。恐らく此の響きこそ「ハイリゲンシュタットの遺書」の背景ではあるまいか。
僕は何時も此の『熱情』ソナタをダニエル・バレンボイムの演奏に聴くが、如何にもベートーヴェンの青春を意識した演奏だと言える。
麻痺した呼吸の喘ぐような響きから堰を切って流れ出る激しい音楽は、僕等に青春の明と暗とを思い起こさせる。それはまさしく人間の心臓の周りを覆っているパトス的な液体の響きに似ている。人の心臓はその液体に守られて正常な鼓動を繰り返す。
彼の音楽も又同様である。『熱情』ソナタは確かに人間の心臓を鍛える力を持っているように思われる。
影よ僕の影よ、僕の心臓もやはりベートーヴェンの音楽に鍛えられたようだ。
迫り来る白い壁、雨は不相変降っている。
窓には無数の雨粒の戯れては僕の書き物を覗いている。
静かな冬の雨降る夜、己の青春を爽やかに惜しむのも良い。僕の青春という人魚姫はあの竹林の一番霞んだ所に手を振っているようだ。僕は君のその桜色の豊かな胸をとうとう抱き締められなかった。
影よ僕の影よ、君もあの桜色の豊かな胸を持った僕の天使を知っていよう。君の追い払ったのはあの人魚姫だ。
青春、僕の青春は今『熱情』ソナタのアレグロ・アッサイの激しい鼓動のように或る物語を葬ろうとしている。
「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いて以来ベートーヴェンの青春は、苦しく悲惨な思い出はなくなっていた。
彼の青春は絶え間なく音楽を帰し続け『熱情』はその頂点だったと言える。ピアノフォルテという楽器も当時まだ未発達の物だった為に、彼の音楽と共に進歩したと言えなくもないが、しかし彼のピアノソナタは己の青春に捧げられたモノローグだった。
彼にとってピアノの鍵盤にこそ、青春の様々な物語は眠っていたのだろう。その白と黒との美しい配列に誰よりも多彩な誰よりも新鮮な天使を彼は見出し愛したのではあるまいか。それは僕も同様である。
僕もベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」の如き書き物を、哲学者U先生に認められ出版したが、以来その書物の内容よりもそれを書いて居る時の心の状態を思い出す。そうしてそれはモノトナスな響きとなって己の記憶の中から聴こえて来る。
ピアノを愛する独りの、ピアニストになれなかったピアニストとして僕はそれを何時も素直に聴いてみる。やがてピアノの鍵盤も見えて来る。
[こんなに長いラブレターに引き合わされたのは始めてだよ]僕の出版した書物を片手に記念パーティの、スピーチを始めた気心知れたKというTVディレクターの云う通りそれは「ハイリゲンシュタットの遺書」ならぬ二八〇頁に及ぶ恋文だった。僕は此処にその恋文のことを云々する気はないけれども、あの書物はつまり僕の「ハイリゲンシュタットの遺書」だった。
U先生は[言葉に真の意味を与えた本]と序文を纏めて下さり、[透谷の再来]とM氏の評した僕の本は世間には受けなかった。今も僕は世間に受けぬ物書きではあるが、受けぬということに何の不満も無い。
一人の女に宛てた長い恋文であり乍ら遺書でもあったあの一冊の本に、僕の青春は始まったのだった。
ベートーヴェンの青春も恐らく「ハイリゲンシュタットの遺書」の苦悩の中に始まったのである。若き日の彼はそれに気付かず天使に祈った。恋愛、友情、純潔、憎悪、嫉妬、倦怠、出会いと別れ、そうして再会、『熱情』ソナタとはベートーヴェンの青春の記念碑だった。僕の目の前にまだ鍵盤は見えている。
人魚姫はまだ、竹林の最も静かな場所に手を振っている。
迫り来る白い壁、風は既に竹林の青い土に眠ったようだ。
静かな冬の雨降る夜、もう雨は雪に変わりそうだが窓にはまだ雨だれの光っている。
あの人魚姫の紅い唇をとうとう僕は、此の長い指に触れなかった。そうだ僕のピアノを最後に君に弾いてみせよう。
ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとして、僕は今宵やはり『熱情』ソナタのアレグロ・アッサイを選ぶ。何故なら『熱情』ソナタの麻痺状態からの音楽の正常な激しい離脱は現在の僕の精神を表しているからだ。若しかしたらベートーヴェン自身もそんな正常な音楽の激しい離脱に因って、青春を顧みやがて別れを告げたのではなかったか。ピアノという楽器の限界にはっきりとした線を引いた彼の二十三番目のピアノソナタは、彼の孤独なる精神にも境界線を鮮やかに引いたのである。
鍵盤の上に見事に結合するリズムとメロディーとハルモニーとは彼のピアノソナタ全体を貫いてはいるがしかし、『熱情』ソナタにのみ言えるのは音楽の熱さと均整の取れた抑制の完璧な美しさだ。均整の取れた人間の三つの秘密はピアノをして僕等の胸の内に解けて行く。
僕等の懐に解け彼の三つの秘密は次第に、僕等自身の秘密に繋がり僕等の魂を解放するのである。ロマン・ロランではないけれども、ベートーヴェンの『熱情』ソナタには全ての魂を解放へと導く力の確かに在る。
僕は彼に己の青春の光と陰とのモノトーンを、想像に於ける鍵盤に因って教えられた。
『熱情』ソナタという音楽は、それにしても何と激しく正常なのだろう。しかしそれは抑制された故に、完璧なバランスを保つのではない。彼の三つの秘密は三つの秘密の儘、満々と溢れた時間の面に浮かんで沈まなかった。したがってそれ等ベートーヴェンの遺した秘密は、僕等の青春の傷口にのみ溶け染み入り僕等の記憶に又現れるのである。
寒い夜である。