六
ベートーヴェンの森は如何にも暗くて深い。けれども僕は歩いて行く。あのピアノの微かな音は何処から聴こえて来るのか僕は知りたい。それは僕の弾くピアノの音の裏側に、何かの応えのように小さく響き乍ら付いて来る。
やがて小さなピアノの音は、此の病んだ肉体を覆うふうに鳴り響くだろう。
僕は慣れて居る。
ベートーヴェンよ、僕の冷え切った肉体をその真空の時間の中に暖めてくれ。音楽という真空の時間は僕にとって、唯一の温度在る場所なのである。
温度在る場所、紛れもなく白い壁にも温度は在る。
僕に迫る白い壁に刻まれたベートーヴェンの音楽は、次第に浮かび上がり暖かいエネルギーを放射している。放射されたエネルギーはベートーヴェンその人の血汐の温度ではあるまいか。
僕は慣れて居る。
例え押し迫る白い森に全ての形と色彩の吸い込まれようとも彼の体温は今僕に通じ、僕の心臓を流れ僕の記憶へと実ろうとしている。記憶に実った力強いピアノソナタは作品五十三のハ長調『ワルトシュタイン』である。誰も此のソナタをピアノ音楽の最高傑作だと疑わぬが、真空の時間はまさしく『ワルトシュタイン』の第一楽章に在る。
アレグロ・コン・ブリオと指定された楽章は実に激しい鼓動の音から始まる。鳴り止まぬ耳鳴りの幾重にも重なり合った己の動悸を、彼はあたかも観察するようにデッサンして行く。
僕は『ワルトシュタイン』を聴く度にレオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンを思い出す。レオナルドの描いたあの美しい手を思い出す。ふと気付くとあの手は壁一面に犇き合っていた。空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕は無数の手を思い出す。
何時かの夜だった。無数の手は一つ白い壁に現れて、束の間に様々の表情を持った手を産んだのだった。
手は忽ち白い壁から抜け出しその幾つかは緑色のカーテンの陰に隠れ、又幾つかは僕の手に重なって仕舞った。しかし無数の手はそれきり白い壁に溢れなかった。以来、レオナルドの手は『ワルトシュタイン』ソナタにのみ付いて来るようになった。
ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとしてアレグロ・コン・ブリオの幻覚を又懐かしく思い出す。
静かな冬の雨降る夜、ベートーヴェンは又『ワルトシュタイン』を弾いている。僕はまだ白い森の深さを知らぬ。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
レオナルドの手は何処だ。そうして僕は彼の指定したアレグロ・コン・ブリオの速度に暫く歩いてみる。
温度在る場所、白い壁に僕はベートーヴェンの体温を感じて居る処だ。
雨は依然降り続いている。窓は不相変光の波を寄せ続けている。
今十一度、寒い夜である。しかし僕の肉体は熱い。
熱い肉体、それは病的に熱いのではない。真空の時間を体験して居る故に神経の摩擦熱に因って熱いのである。
僕の神経は常に時代を対象に摩擦熱を発散している。
人は時代に生き時代を認識し、時代と共に老いつつ時代の中に自己の個を失う。時代はそれ程個人にとって大事なのだろうか。否である。時代とは大衆の別の名に過ぎぬ。時代は歴史を削る時間という波に浮いた泡に似ている。
僕はそういう時代と呼ばれるものに何も嫌悪感等抱いては居ない。寧ろ時代に就いて考えぬことはそれを深く洞察することではなかろうか。僕には時代を無視することは出来ぬ。けれども此の部屋に時代は無い。在るのは削り残された歴史だけだ。僕はその歴史と共に暮らし対話し愛を交わして居る。
影よ僕の影よ、君もそんな僕の生活を充分に理解していよう。時代と係わりの無い人間であり乍ら僕は何時も窓を気にして居る。
窓には不相変雨の降っている。
明らかに時代は過ぎて行く。そうして明らかに時間は歴史を刷り減らそうと波を打ち寄せ続けている。
静かな冬の雨降る夜、僕は時代に就いて此の書き物に記す積もりは無い。飽く迄もベートーヴェンの『ワルトシュタイン』を聴き乍ら、心に見える或るものを記そうと考えて居る。
しかし彼は『ワルトシュタイン』のアレグロ・コン・ブリオに時代への摩擦を表現しているように思われる。少なくともブルーノ・レオナルド・ゲルバーの弾く荒々しいアレグロ・コン・ブリオに、音の無い世界からのベートーヴェンの時代へのメッセージを聴くのは僕だけではあるまい。
激しい鼓動の音から始まる第二十一番のピアノソナタは、右手の奏でる旋律に時代を通り過ぎて仕舞った音楽の勇ましさを僕は想う。音楽の勇ましさはやがて聴く者の胸の中に音楽の哀しみとなって輝き始めるのである。
安物のピアノの前にベートーヴェンは座り込む。すると、鍵の壊れた窓は彼の後ろにばたばたと鳴った。突然窓から大きな風の塊は彼の後頭部辺りに殴打を加えると彼は振り向く。そして彼は直ぐにピアノの上に有った五線譜を鷲掴みに取り、羽根ペンにて[アレグロ・コン・ブリオ]と書き記したに違いない。
恐らく彼にも空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜は在った筈だが、僕は今その夜を何とか書き著そうとして居る。
人は時代に生き時代を認識し、時代と共に老いつつ時代の中に自己の個を失う。ベートーヴェンはどうか、彼は今の僕と同じく時代をその儘音楽に写し撮った。しかしそれは描写ではなかった。『ワルトシュタイン』という大ソナタはベートーヴェンという一つの魂の認識した時代の風景だった。
アレグロ・コン・ブリオの通りにやはり雨は降っている。
寒い夜である。
今僕の後ろに緑色のカーテンは微かに動いた。此の木の葉模様の緑のカーテンの動きを背中に感じ、物を書くのはもう何年目だろう。七年、否八年になる。
確かに木の葉模様は真後ろに在るのだが、僕にはその動きは見える。見えるのではなく背中の皮膚を、木の葉模様は揺さ振り皮膚はそれに反応するのである。丁度陽を受け乍ら静かに揺れる大樹の枝の動きのように、それは僕の背中を照らしている。長い間僕はその静かな動きに促され或いは慰められて様々な物語を書いた。
様々な物語
様々な出来事
様々な思い出
様々な記憶のピアニッシモ
それ等は皆僕の失われた時間だった。
失われた時間に就いて、此の木の葉模様はそれぞれの時期の僕の背中の温度や傷みを呼び返してくれる。
かなりり歪んで仕舞った僕の背骨ではあるが、瑞々しい木の葉の舞いは果たして以前のように翔び跳ねてくれるのだろうか。疲れた背中、冷え切った背骨を暖めてくれるだろうか。
しかし僕は慣れて居る。
例えばワルプルギュスの夜、ファウスト博士の見た夢は美しくも恐ろしかった。
例えば巳里に下宿を借りたマルテの、死を覚悟した不安定に断片的な夢は凄まじい熱を帯びていた。
影よ僕の影よ、瑞々しい木の葉の舞いを共に愉しもう。迫り来る白い壁に、僕の失われた時間の舞いは一体どんな物語を見せてくれるのだろう。
そら、僕の少し下がった左の肩甲骨の辺りに最も青い葉の舞い焦がれている。
失われた時間はこうして毎夜、白い森の中に舞い僕の手に様々な物語を強請るのだった。僕の手は毎夜、ワープロのキーボードの上に言葉の限界を探った。時代を鍵盤の上に探ったベートーヴェンの手のように。それにしても彼も又『ワルトシュタイン』という傑作の懐に、失われた時間を顧みたかも知れぬ。
様々な物語
様々な出来事
様々な思い出
様々な記憶のピアニッシモ
それは皆彼の失われた時間だった。
『ワルトシュタイン』ソナタはベートーヴェンという、一つの魂の認識した時代の風景である前に彼個人の物語だった。
静かな冬の雨降る夜、窓には木の葉模様の揺れている。しかしベートーヴェンはまだ動かぬ。
迫り来る白い森、アレグロ・コン・ブリオの通りにやはり時間は過ぎて行く。時代とは全く無関係の場所に全ての時代は集まりこういう真空の時間を造りベートーヴェンと語り合っている。かなり湾曲した僕の背骨にピアノの音は染み込んで行く。レオナルドの無数の手に換わって沢山の木の葉の戯れている。
失われた時間の哀しみに付いて、僕は白い森を歩いて居る。
失われた時間の哀しみは僕の後ろの数多の木の葉の一枚に在るのだろう。ベートーヴェンの『ワルトシュタイン』は窓硝子に跳ね返っては、僕の眼前に迄迫った白い森の中を彷徨っている。
迫り来る白い壁に、吸い込まれた激しいピアノの音を僕の記憶は追い掛ける。
今突然、風は僕の頭を飛び越えてもう遠い街を吹いている。
そう言えば此処洛西の竹林では風は突然巻き上がり、遠吠えと共に過ぎて行くのだけれども恐らくベートーヴェンの肺の中にも幾度かそんな突風の吹き過ぎたことだろう。彼はそういう風を体内に放しつつ、失われた時間を音楽として表現したのである。
僕等はその音楽を聴き彼の顔を想像し彼の性格を知ろうと努め或いは彼の生きた時代に光を当てようとした。しかし僕等歴史に携わる者は最も身近な或るものを疎かに扱い過ぎたのではなかろうか。それは彼の音楽に個を預けることだ。
彼は僕等の預けた個を抱き締めて、その孤独な魂を打ち明けるだろう。彼の小さな声に打ち明けられた三十二曲のピアノソナタこそ、仁王立ちになって指揮棒を振る交響曲よりもベートーヴェンの失われた時間は克明に記されている。
ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとして僕は、僕の失われた時間を彼のそれの内に捜して居る処だ。
風は又蜷局を巻き僕の頭上高く一点の空間となって星を一つ創る。
静かな冬の雨降る夜、僕はB・L・ゲルバーの演奏に『ワルトシュタイン』を聴いて居る。
迫り来る白い壁、背中に犇き合う無数の木の葉、アレグロ・コン・ブリオにやはり時間は過ぎて行く。
寒い夜である。