五
ベートーヴェンの肖像と言えば全て発達した顎とざんばら髪を描けば通用したようだが、僕の頭に浮かぶ一枚の肖像画は違う。
霧の中から上半身の浮き上がった彼を描いた画家の名は知らぬ。しかし僕の最も理想に近いベートーヴェン像である。
あたかもフランツ・リストのように痩せた男の顎は真にベートーヴェン的だ。
ベートーヴェン的なるもの、僕は今それ等にのみ興味を持って居る。
若干下を向き眉間に深い皺を寄せた此のベートーヴェンの肖像画に、僕は僕なりに彼の詩と真実とを見るのである。別段その肖像画を部屋の壁に掛けている訳でもなく、始終眺めて居る訳でもない。それは何時か求めた或るレコードジャケットに見た肖像画だった。
フルトヴェングラーの『エロイカ』だったか、シェリングとハスキルの『クロイツェル・ソナタ』だったか、それともポリーニの『ハンマークラヴィア』だったか定かではないけれども、兎に角僕にはその静かに閉じられた眼は何よりもベートーヴェン的だった。
人の眼は開かれた時よりも閉じられた時に眼球の哀しみを放出する。放出された哀しみはやがて、僕の記憶に溢れ乍ら直ぐに音楽と化するのだろう。
今寒さは平行線を辿っているが僕の足元は冷たくなる一方だ。ベートーヴェンのあの肖像画の中にも、気温というものは在るのだろうか。僕はふとそんな詰まらぬことを想像する。俯いて眼を閉じたベートーヴェンを囲む深い霧は果たして寒いのだろうか。
影よ僕の影よ、僕の何時か見たベートーヴェンの肖像画はやはり寒さを堪えている。自らの胸に小さく光の燈るのを彼はじっと待っている。
寒さは熱い肉体にのみ感じる生命の音楽だ。暗闇は光の生まれる空間に違いない。
良ろしい、影よ僕の影よ、ピアノを弾こう。
此の部屋は十二度だ。
窓には僕の体温の、白く輝いて夜と寒さとを愉しんでいる。壁には押し迫る力もまだ余っていそうだ。
壁よ白い壁よ、僕に迫るが良い。
僕はまだ生きる。そしてピアノを弾く。
空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜明け、僕は故郷を待って居る。言葉に故郷は在る筈だ。ピアノを愛する独りの、ピアニストになれなかったピアニストとして僕は此の書き物に音楽のような時間を遺したいのだ。しかしベートーヴェンはまだ動かぬ。僕はもう眠らねばならぬ。
周りは明るくなる。白い壁の止まって僕の夜は一旦終った。
又新しい夜、ベートーヴェンは僕を訪れピアノを弾いてくれるだろう。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
・・・・・
又白い壁は僕に迫って来た。既にベートーヴェンはピアノを弾いている。
寒い夜である。
小糠雨の降ってはいるが窓は却って静かだ。無数の水滴は此の僕の部屋を覗いている。窓に集まった思い出は僕の中を覗いている。
影よ僕の影よ、こんな水滴の一つに若しかしたら僕の人生は飲み込まれているのかも知れぬ。君もそうは思わぬか。無数の雨粒に聞いてみるが良い。僕は部屋の真中に再び書き物を始めた処だが、小さな雨粒はまだまだ僕の上に重なり続けるのだろう。
重なり続ける雨粒から僕は今宵、一体何を聞くのだろうか。一体どんな物語を此の部屋に響かせてくれるのだろう。
静かな冬の雨降る夜、失われた何かの帰って来る夜、僕は素直に耳を澄まして居る。
僕の頭に又少し俯いたベートーヴェンの肖像画はぽっと浮かんでいるけれども、それは嘗てレコードジャケットに見た時程輪郭のはっきりしている訳ではない。
右肩を前に出し、額は広く眼を閉じたベートーヴェンに僕の記憶は何故かはっきりした輪郭を与えぬ。それは肖像画その物の所為ではなく、恐らく僕の記憶の所為である。
愛するものの全てを知る必要はない。愛するものの全ては愛する物の方から明かしてくれる筈である。僕はベートーヴェンの神秘を愛する。ベートーヴェンの放出している哀しみを愛する。ベートーヴェンの愛したピアノを愛する。
良ろしい、影よ僕の影よ、ピアノを弾こう。
生きる為に非凡なる人間を剥き出しにせねばならなかったベートーヴェンと、生きる為に異常に敏感な肉体の中に人生を過ごさねばならぬ僕との神経の通った夜、僕は失われた何かを待って居よう。マルテ・ラウリッツブリケの云う通りに、そうして牢獄の闇に向かってフロレスタンの激唱したように、僕は白い壁に向かって待って居よう。
ピアノを弾こう。
君も思い出してくれ。捜し出してくれ。
僕の失われたもの、僕の失った物、僕の時刻、僕の涙、僕の生活、それ等を僕はあのベートーヴェンの肖像画に見たのだった。あの肖像画にそれ等は生きていそうだ。しかし小さな雨粒はまだまだ僕の上に重なり続けるのだろう。
僕の失われたもの、僕の失った物、僕の時刻、僕の涙、僕の生活、そうして今宵又ベートーヴェンへの旅を始める。
静かな冬の雨降る夜、失われた何かの帰って来る夜、僕は素直に耳を澄まして居る。
その白い壁
その静かな窓
更に雨
真夜中に降る小糠雨
ピアノは聴こえる。
壁は又迫って来る。
白く澄み切った壁の圧力を僕はまだまだ愉しんで居る。
その白い壁
その静かな窓
更に雨
真夜中に降る小糠雨
ベートーヴェンはピアノの前に落ち着いている。机の上に君も落ち着くが良い。
僕は何時も通り此の部屋に物を書いて居る。何時も通りに、何一つ動く物の無い場所に僕の手は動いて居る。何という不思議な空間に僕は今迄生きて居たのだろう。空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕は改めて想うのである。
雨は降る。
僕の上に雨は降る。
ベートーヴェンの亜麻色の髪の上に。
鍵盤の黒いエナメルの上に。
壁は又迫って来る。
白く澄み切った壁の圧力を僕はまだまだ愉しんで居る。
その白い壁
その静かな窓
更に雨
真夜中に降る小糠雨
生きる為に非凡なる人間を剥き出しにせねばならなかったベートーヴェンと、生きる為に異常に敏感な肉体の中に人生を過ごさねばならぬ僕との神経に雨は降る。
僕は何時も通り此の部屋に物を書いて居る。何時も通り、その言葉は僕の気分を奇妙に鎮める力を持っている。
しかし安堵とは全く異なったものだと言って良く、生きる為の生活を繰り返して居るのだと自覚出来るからである。恐らくそれ同様、あのベートーヴェンの肖像画も僕には意味深い。つまり僕の人生には常に少し俯いたベートーヴェンの肖像画のぽっと浮かんでいるのだろう。そうして彼の音楽は何よりも、僕の部屋を満たし生活を潤し人生に於ける喜怒哀楽を示した。生きる為に僕にはベートーヴェンの音楽は必要だった。
生きる為に必要な音楽、人はそんな僕の言葉を冷笑を持って受け止めるかも知れぬが、僕の異常に敏感な肉体にそれは頗る優しかった。以前に書いたが、僕の肉体は常に音楽に因る静けさを欲した。ベートーヴェンの音楽は、そんな僕の肉体を限りなく薄いクリスタルグラスに覆った。音楽というグラスは全ゆる物音を跳ね返し乍ら、僕の人生を守った。しかし僕は何かを失った。
僕の失われたもの、僕の失った物、僕の時刻、僕の涙、僕の生活、そうして今宵又ベートーヴェンへの旅を始める。
静かな冬の雨降る夜、失われた何かの帰って来る夜、それは故郷の物音かも知れぬ。物音は、今も聞こえぬ。空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕は改めて想うのである。
雨は降る。
僕の上に雨は降る。
蒼い窓のバルコニーに雨は降る。
僕の右肩に雨は降る。
故郷はあのベートーヴェンの肖像画の張り締めた霧の向こうに在りそうだ。
影よ僕の影よ、君に僕は問い掛ける。
あの遠い海は今は寒いか。
あの澄んだ山は今寒いか。
故郷はどうだ。
白い竹林はどうだ。
又白い壁は僕に迫って来る。
白く澄み切った壁の圧力を僕はまだまだ愉しんで居る。
その白い壁
その静かな窓
更に雨
雨は降っている。
ベートーヴェンの雨。
寒い夜である。
依然雨は窓にさらさら降っている。
音楽に因る静けさは何時ものように僕の肉体を覆い始めた。生きる為に僕の肉体はベートーヴェンの音楽を聴く。
ベートーヴェンという孤独の神は応えず、旋律は四方八方に散らばるばかりだ。そうして散らばったベートーヴェンの旋律は此の部屋の全ゆる場所に息をしている。
物音は、今も聞こえぬ。
数多の旋律、無数の呼吸は緑の樹々に遮られた太陽の光の如く聞こえて来る。
そうだ影よ僕の影よ、此処は深い森かも知れぬ。時間の流れを許さず記憶を充分に吸い込んだ森かも知れぬ。過去よりも静かな未来よりも美しい小さく深い森を紛れもなく僕は歩いて居る。
静かな冬の雨降る夜、僕の森には生きる為に必要な音楽に満ちている。
僕はまだ生きる。
僕はまだ森の深さを知らぬ。生きる為に必要な音楽とは雨。
雨の中に跳ね返るのはやはりベートーヴェンのピアノの音だ。
依然雨は窓にさらさら降っている。
ピアノを愛する独りの、ピアニストになれなかったピアニストとして僕はまだ、ベートーヴェンの森を歩く。ベートーヴェンの森、時間は個の記憶に埋もれ故郷は音楽に形容される森。
雨は降る。
僕の上に雨は降る。
僕は今白い壁に向かって何かを捜して居るが、記憶という音楽はその失われたものに換わって僕を慰めてくれている。空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕は生きる為に必要な音楽をベートーヴェンの森に見付けたのだった。
物音は、今も聞こえぬ。
しかし彼のピアノは雨粒のレンズの内に聞こえている。又白い壁は僕に迫って来る。壁は僕に何か大切なことを訴えたいのかも知れぬ。
大切なこと
その白い壁
その静かな窓
更に雨
雨は降っている。
ベートーヴェンの雨。
大切なことはそれだけなのに。
僕の大切なこと、依然雨は窓にさらさら降っている。
静かな冬の雨降る夜、僕は尚ベートーヴェンの森にあの肖像画を捜して居る。