二
空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、僕の耳にはスピーカーの上の時計の音色さえ神秘的だ。つい先程迄、その置時計は僕には意地悪だった。
空間と物体とを覆う時間という波は震えるオーロラのように架かっている。自分の足に立つことの困難な僕には、その波の高さも又興味深い。視線と殆ど変わらぬ高さのオーロラの如き波はしかし、今は優しい吐息を吹き掛けている。物とものとの繋がりも此の波の所為に思えてならぬ。
白と黒との状態とは恐らく、時間という波の渇いた瞬間のことなのだろう。僕にはそういう状態はかなり以前から続いていたと言える。
物を書き始めて既に二昔の過ぎようとしている。
凡ての物音に恐怖を感じ乍ら、精神と肉体との不安定を隠し切れなかったあの頃、僕は母の胸に一日の大半を過ごして居た。痙攣を繰り返す肩と足、しかし僕の耳は何時も母の鼓動を聞いて居たのだった。
当時、発条仕掛けの大きな柱時計の発する音の何と気違いじみていたことだろう。
以来、僕の耳は時を刻む音に敏感になったようである。
時を刻む音、それは無論時間の発する音ではない。時間を告げる為の音だった。僕の耳はやがてそれを聞き分けるようになった。
時間の流れる音はつまり母の体内を通し僕に聞こえたけれども、時間を告げる騒がしい音は僕の頭よりも遥か上に有る古びた柱時計から聞こえた。
けれども母に買って貰ったウィルヘルム・バックハウスのベートーヴェンは僕に時間の美しさを知らしめた。
確か胸の空くような『テンペスト』だった。バックハウスのベートーヴェンは初めて聴いたけれども、それは白と黒との状態から何かを力強く無骨な素手に創り上げようとするロダンの姿だった。
強烈なバックハウスの形への信念を僕は全身に感じた。
モノクロのレコードジャケットに大きくバックハウスの写真は在ったが、僕は何時もそれをプレーヤーに立て掛けてベートーヴェンの音楽を聴いた。すると此の鍵盤の獅子王は、長い眉と鋭い眼にベートーヴェンを宿していた。そんなバックハウスの懐のベートーヴェンは僕の不安定な精神と肉体とを見通す力を備えていたかに思われた。僕の耳に再度鍵盤の夢の帰って来るのを確信し乍ら、バックハウスという大ピアニストに真に流れる時間のいう音楽を学んだのだろう。
影よ僕の影よ、あのバックハウスのベートーヴェンのレコードを捜してはくれまいか。今宵は、あの長く真白な眉と少し見開いた鋭い眼の懐かしい夜である。
あの頃、僕の心の真中に時間の流れへの信仰はバックハウスという大家に因って聳え立った。そうして僕の異常に敏感な耳は時計の音ではなく、時間の流れる音にのみ傾いた。ベートーヴェンの音楽は永遠に流れるであろう時間に忠実だった。
永遠なるもの、時間の流れは果たして永遠なのだろうか。そうは思わぬ。寧ろ此の地球上に、永遠なるものも無限なるものも無い。しかし認めぬとは決して言うまい。何故なら音楽こそその永遠なるものに最も近いと考えられるからだ。
物とものとの繋がる瞬間に存在する火花に永遠の音楽は生まれる。此の存在し、一瞬にして消えて了う響きを人は音楽と云うのである。
バックハウスの弾く『テンペスト』に物とものとの繋がる瞬間を観たと言って良い。その時、僕の胸の内に己の信じるべきものを感じて居た。僕はそれからベートーヴェンの音楽を最良の憩いの場として来た。
バッハの『平均律クラヴィア曲集』に身を委ね、シューマンの『クライスレリアーナ』に心時めかせては居たけれども事在る毎にベートーヴェンの三十二曲のピアノソナタに帰った。
当時の僕は先ずベートーヴェンという人間よりも、彼の遺した三十二曲のピアノソナタが大切だった。
ピアノを弾くベートーヴェン、何だか僕は彼の姿をピアノの前にのみ観るのである。それも別段間違った解釈ではなかろう。僕は歴史学者でもなければ文献学者でもない。それにミュジコロジー的に彼の音楽を論じようと思わぬ。
唯ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとして、僕はピアニストであったベートーヴェン像を残して置く。それはベートーヴェン像とは言い難いかも知れぬ。或いは背丈一六四センチのせむし男のベートーヴェンではなく、一八五センチを越えるゲルマン人と化するだろう。しかし彼は僕の聴覚の知り得る限りそういうピアニストだったのだ。
影よ僕の影よ、君は不相変僕の冷たい足の間に落ち着いている。
やがて小さな冬は僕の部屋に大きくなり、窓を暫く窺ってから翔び出して行くだろう。けれども冬は又戻って来る。ベートーヴェンの顔を持った冬は静かな嵐を運んで来る。寒いと感じた瞬間、僕の歪んで仕舞った背骨は今年も痛み出す。
今又してもベートーヴェンの掌は鍵盤の上に揃えられ、第七ソナタのラルゴ・エ・メストの弾かれ始めたが、それにしても何という魅惑的な時間の流れだろう。僕は何時も此の音楽に或る風景を思い出す。それは果たして風景と言えるのだろうか。風景とは言い難い程ぼやけてはいるが、ゆっくりとラルゴ・エ・メストの懐から、大きな渦を造り僕を何時も包んで仕舞う。
唯ピアノを愛する独りの、ピアニストになれなかったピアニストとして僕はそんな風景に素直に身を休めよう。
此の第七ソナタのラルゴ・エ・メストには何だか、ベートーヴェンの握り締められた拳の哀しみの潜んでいそうである。握り締められた拳の哀しみにて、彼は次第に機能を失いつつある聴覚を罵り或いは労ったのだろう。
そう言えば僕の左手の拳はどうだ。全く機能を失った故に僕の左掌は開かぬ。一体どんな知恵を握った儘開かなくなったのかまだ僕は知らぬ。その握られた儘の或るものに、僕の研ぎ済ました神経は、毎夜問い掛けて居るのかも知れぬ。
あの頃、空間と物体とが光と闇に結び付いた或る聖なる夜、僕の左の手は何かに脅えそして何かを握り締めたのである。
それからずっと僕の左手の時間は停止している。否、時間は此の手を避けて通る。しかしベートーヴェンの音楽はそんなに無情ではない。彼の音楽は飽く迄も傷付いたものに優しい。
音楽に愛撫された僕の肉体の一部は、今眠っているだけだとしたらどうだろう。何時か堅く握り締められた拳は開き、失われた機能と共に過去という知恵の飛び散ったとしたらどうだろう。
そんな幻想的な出来事をベートーヴェンの第七ソナタは簡単に信じさせる程ラルゴ・エ・メストと指定された楽章は美しいのである。けれどもベートーヴェンは此のラルゴ・エ・メストに固有の時限を想像した。
次第に遠ざかって行く世界のノイズから、彼は耳を塞ぎ乍ら眼前を流れる時間のみを信じた。
僕の部屋は又静かな音楽に満ち溢れる。
ピアノの音である。
あの頃、空間と物体とが光と闇に結び付いた或る聖なる夜から、唯ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとして僕はベートーヴェンと歩を共にして居る。
風の強い夜、窓に枯れ木も揺れている。枯れ木は大きな手となって僕の頭を揶揄っている。しかしベートーヴェンの音楽はそんなに無情ではない。ベートーヴェンはピアノを弾いた儘まだ動かぬ。
僕の部屋は又静かな音楽に満ち溢れる。
ノイズは無い。
僕の失われた時間に途切れ途切れに鳴った音楽の応える時、生まれたばかりの出来事となって翔び回っている。動かぬベートーヴェンの膝の上に、肩の上に、そして両の手の甲の辺りに生まれたばかりの出来事は群がっている。途切れ途切れに鳴っているのは第七ソナタのラルゴ・エ・メストだが、僕の失ったのも若しかするとそのラルゴのように波打ったモノトナスな思い出ではあるまいか。前にも書いたけれども、モノトナスな思い出とは僕にはピアノの鍵盤なのである。
白と黒という色彩の中に無数の音は、今にも生まれ出ようとする。
ピアノの音は生まれ出ようとする瞬間に人の手の温度に反応する。白と黒との鍵盤に、一旦眠ったベートーヴェンの音楽は人の手の哀しむ程に響くのだろう。
確かに彼の哀しみは己の拳を堅く握らせたが、ベートーヴェンの音楽はしかし人類の拳を解き、紛れもなく鍵盤の上に快く向かわせたのである。
風は少し納まった。
窓に月は見え隠れしている。月の光は水蒸気に霞んだ窓硝子を、漸く潜り抜けて僕の頚動脈を強く照らしている。
頚動脈に月の光は吸い込まれて行く。
それはあたかも僕の失ったものの如く思われた。懐かしいと感じた。そうして何かしら此れは真の音楽体験だと、ふと気付いたのだった。
僕は今、本当にベートーヴェンを己の肉体に体験して居るのだと。此の冷え冷えとした僕の部屋は如何にも寒い。
ベートーヴェンも多分こんな寒さの中に白い息を吐き乍ら、その息の白い形を何とか音楽にしたいと願ったのだろうか。それとも視覚に決して映じぬもののみを、音楽として後世に贈り届けんとして生きたのだろうか。僕は知らぬ。
僕の知って居るのはピアノ・ソナタを日記のように書き乍ら、何時も鍵盤に手を揃えていたベートーヴェンである。
聴覚を失いつつある最中、彼の両手は常に白と黒との鍵盤の上に自然の色彩よりも多彩な色を求めて激しく動いていた。自然はベートーヴェンに最高の音を鳴らし、彼の最良の友達ではあった。けれども自然の音はもうベートーヴェンの懐に尽きて了って、以来彼の音楽は自然の美しい色彩を越えねばならなかった。つまり肉体からの、精神からのモノトーンを音楽にすることだ。
記憶の中に生きている自然こそ、ベートーヴェンに驚きという宝物を与え乍ら彼の周りに広がった。
驚きという宝物、恐らくは万人に共通する感情に繋がった或る言葉に行き着く。それは美に憧れ美を求め、美に就いて思考を巡らせた心の動きである。
外界からの音を完全に遮断された一つの魂は、苦悩を痛切に知り物を拒絶し続けた後、その真空になった心を美へと向けたのだろう。即ち真空の心は何よりも素直に美を驚くことの可能なのではあるまいか。美は驚き以外の何ものでもない。僕はベートーヴェンの音楽にそれを確信したのである。
僕は今静かな真夜中、こうして彼と向かい合って居るのだが彼の肩も胸も眉もそして眼もびくとも動かぬ。動いているのはピアノを弾く両の手、此の美しい音楽を生み続ける大きな掌だけだ。
僕は何時も音楽に驚いて居る。
唯ピアノを愛する独りのピアニストになれなかったピアニストとして僕は驚くのである。
幾つかの著作に僕は随分ピアノへの想いを書いたが、此のピアノという物は又してもそんな僕の揺蕩う思い出を浮かび上がらせる。