第一章

 傷付いた生きもの達の見る夢の中に、何時もベートーヴェンの音楽は流れている。恐らく生命とは己の傷付いた時、自らの心臓の鼓動に気付きそれを最良の音楽だと感じるのである。

 紛れもなく此のテーブルの上に、僕の影法師はベートーヴェンのアレグロ楽章を欲している。

 此の細やかな書き物に僕は僕の哀しみをベートーヴェンと共に数え、そして認める積もりだ。しかし彼は動かぬ。話掛ければ掛ける程彼は第四ソナタを弾いているだけだ。

 僕は何度もベートーヴェンの三十二曲のピアノソナタを聴き乍ら、様々なことに出会いそれぞれに就いて思考を巡らせては来たが、思考は常に僕自身の中に向かっていた。

 僕自身に向かっている思考とはやはり、僕自身の過去を辿ることではあるまいか。ベートーヴェンのピアノソナタにはそれぞれの時期の僕の思考の断片が生きているのである。

 ざんばら髪を振り乱して形有る物を否定した時期も、人を愛して人に傷付いた時期も、自らの傲慢な頭と敏感な心との調和に悩んだ時期も、肉体の部分的機能の低下の為に断腸の如き苦悩を知った時期も、三十二曲のピアノソナタは含んでいる。

 僕は想像する。

 ベートーヴェンという偉大な魂は、誰にも手の届かぬ処に誰にも知り得るような哀しみと苦痛とを響かせたのである。そんな彼の音楽から僕は、或る時期に奇妙な経験をした。形有るものが凡て僕の肉体から離れて行くのを感じたあの頃、確かにまだ僕の青春だった。

 あの頃、僕の周りに有ったのは凡て個物に思われた。つまり何物にも繋がりを持たぬ物の集まりは視覚と聴覚に不自然に響くばかりだった。

 しかし影法師よ、君だけは僕にしっかりと繋がっていた。

 僕は毎日、机の上に大きな百科事典を広げつつも実は君と対話をして居た。僕の気紛れに探して居る言葉から君はその意味等教えてくれた。

 淋しさは大きな事典の頁を繰る度に僕の、鼻腔を貫き二つの眼球の奥に染み込んだ。まだ少年の盛んな感受性はそれを人生の冷たい風に譬え乍ら、タイプライターの片仮名に詩を撃ち出したのである。机の上の大きな事典から立ち昇る冷たい風の匂いに、やがて僕は物の名に跳ね返る音の謎を会得することを覚えた。

 会得すること、それは人生の内の最初の愉しみになった。己の肉体に対する嫌悪故に僕は頭の健康を主張し始めると、人生は様々なものを此の部屋に繰り広げた。机の上の大きな事典はしかし依然として淋しい影法師を宿していた。

 影坊師よ君はあの頃、事典の頁を繰る度に物とものとの繋がりを丁寧に教えてくれたのだけれども、頭の愉しみを覚えた僕にはどうにも聞き取れなかった。僕の眼は君という闇を突き抜けて、事典に記された明るい文字の上を急いで走り回っていた。

 言葉の上を走れば走る程僕の頭は物の名の美しさを知り、言葉というイデアを信じるようになったのである。

 言葉は確かに面白かった。

 言葉を会得することは己の未来を解するような気もして居た。

 そんな或る夜、寒い冬の日だったと記憶するが突然ピアノが鳴ったのである。

 詩を書いて居て眠気と共に聴こえたピアノの音に僕は、鍵盤の白と黒との響きを感じたのだった。

 何の理由も無くピアノは聴こえ白と黒との鍵盤を夢に見た時、僕は又君を思い出した。白と黒という最も明快な世界から、何時も僕を見詰めていた君を思い出したのだ。そしてそのピアノの音色は確かにベートーヴェンの第四ソナタだった。

 物とものとの繋がりとは例えば、白と黒との鍵盤に似ている。

 空間と物体とが光と闇に結び付いたあの聖なる夜、ベートーヴェンは此の部屋に下りて来た。

 物とものとの繋がりは、白と黒との鍵盤の上の彼の分厚い掌に似ている。それはまさしく二つのものを一つにしようとするのではなく、二つのものを繋げようとする傷だらけの掌だった。鍵盤を駆け回り白と黒との音色に問いと応えとを見出さんとするベートーヴェンの掌は、あの少年の日の僕に見えたのだ。やはり寒い冬の日だったと記憶するが突然ピアノが鳴ったのである。

 今も尚僕の正面にアレグロ楽章を弾く人よ、あの日僕に与えた鍵盤の夢をもう一度繰り広げてはくれまいか。

 影よ僕の影よ、僕に代わってベートーヴェンに伝えてくれ。白と黒との鍵盤の見果てぬ夢をまだ信じて居る者と、鍵盤の上に全ての音楽を創造し得た者との静かな冬を守ってくれ。

 ベートーヴェンはまだ動かぬ。

 冬という一つの季節は幾度ともなく僕の内面に新しい知恵を送り込み、過ぎて行くのだけれども今回も又以前よりも深い嵐を巻き起こしそうだ。今宵も僕の部屋はベートーヴェンの弾くピアノに因って、白と黒との繋がりは保たれている。

 白と黒との状態こそものの始まりであり物の終りなのだろう。僕は鍵盤の白と黒とにそういう始まりと終りを常に感じて居るのである。若しかしたらベートーヴェンの無骨な掌も、そんな始まりと終りとを知り乍ら鍵盤の上に音楽を敢えて残したのだ。したがってベートーヴェンのピアノ・ソナタは全てのものを誘い総ての物を突き放さんとする異様な力を持っている。創造と破壊との両極から音楽は突き詰められ、僕等の魂の周りに大きな円を描く。

 円は大きい。円は何時の間にか僕等の見慣れた風景の中に溶け込むとあたかも、僕等自身の内部から音楽となって聴こえるのである。ベートーヴェンの生きものへのアレグロは、僕等の知らぬ間に僕等の過去に呼吸している。僕等は故に彼のアレグロ楽章に多くの友達を持ち、理想の父を想い一つの故郷を求めるのである。

 その友達もその父もその故郷も、まさしく二つのものの繋がりから創造された僕等のイマージュに他ならぬ。それはベートーヴェンの白と黒との、鍵盤に賭けた力強い創造の知恵の所為である。賭けは紛れもなく彼に天才の名を与えた。けれども彼は自らの幸福を失った。

 詰め衿を立てその衿の陰に彼は、何度も呟く。

 「覚悟は出来ている。此れは俺の運命だ」

 彼はそれでも大手を振り胸を張ってボンの大道を大股に歩く。深く骨太の歩調音は機能を失い掛けている聴覚に届く前に彼の肉体を通して響き乍ら、或る信仰を彼に告げたのだった。

 爪先から全身を貫いた彼の信仰とはつまり、アレグロ楽章を中心とした音楽であった。アレグロこそ人間を最も自然に帰らせ心臓の音を思い起こさせると、ベートーヴェンは信じたからだ。僕もやはりそう考えつつ、今も第四ソナタのアレグロ楽章を聴いて居る。そうして又鍵盤の白と黒とに想像を巡らせるのである。

 影法師よ僕の影法師よ、ものと物との繋がりに就いてまだ考えねばならぬ。問題は此の僕の部屋に視覚に触れ得ぬものの案外多いことに在る。

 時間は流れて行く。

 物はどうだろう。しかしものは動いている。

 多分、僕の肉体は物に過ぎぬのだろうけれども果たして此れは一体何に繋がって居るのだ。繋がる、そうだ。此れは君の闇に繋がる唯一つの鍵かも知れぬ。

 白と黒との状態こそものの始まりであり物の終りだとすれば、僕は此の冬ベートーヴェンと共に捜さねばなるまい。

 何を、僕の大切なもの、その友達もその父もその故郷も僕はまだ知らぬ。ベートーヴェンよ暫く僕の冬を旅してくれ。

 空間と物体とが光と闇に結び付いたこんなに静かな聖なる夜、ベートーヴェンは此の部屋に下りて来た。

 影法師よ僕の影法師よ、肉体の無い者と肉体の哀しみを音楽に高めた者との対話を支えてくれ。あの鍵盤の白と黒との交差した美しい夢を、僕はまだ憶えて居る。

            


第二章

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