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ベートーヴェンの森
日比 工
序
無論此の部屋に居るのは僕だけである。
壁は白く澄み切り、天井は肌理の粗い灰色に水底のような時間を吸い上げている。時間と共に吸い上げられた記憶を僕は言葉に呼び返さねばならぬ。僕の呼び返した記憶は嘗て僕以外の生きものの記憶だったかも知れぬ。
生きもの、取り分け小さな草花だったか、それとも途徹もなく大きな大樹だったか知る余地はないけれども、ベートーヴェンには大切な謎であったのだろう。
そんな大切な謎に彼は何時も悩んでいた。ベートーヴェンの音楽は己に最も近い心臓の鼓動を中心として、音楽へと模倣することを忘れなかった。つまりベートーヴェンはアレグロ楽章に哀しみをより多く記録し、又表そうとしたのである。より多くの哀しみとより深い苦悩とを、彼は他の人の体内へと訴えようとした。
生きものの最も重要な音をその肉体に帰し乍ら、アレグロという指定を書き続けたベートーヴェン、僕は想像する。
音楽とは人間の肉体に忠実に響く音のことだ。それは決して肉体から食み出してはならぬ。
彼は眠る時、夢を見なかった。彼は全ての生命を愛した。彼の涙は流れなかった。
僕はそういうベートーヴェンを想像する。想像すればする程、彼はピアノの前にどっしりと座って動かなくなる。動いているのはピアノを弾く太い指だけだ。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンよ、動いてくれ。
僕の影の向こうに第四ソナタを弾くベートーヴェンに少しでも近付きたいと願い乍ら僕は夜毎、束の間の秋を過ごした。
束の間の秋、僕の部屋にベートーヴェンの住み付いた静かな秋は既に去ろうとしている。俯きがちに背中を丸め、第四ソナタのアレグロ楽章を弾く人は動かぬ。
影よ僕の影よ、僕に代わってベートーヴェンに伝えてくれ。肉体の無い者と、肉体の哀しみを音楽に高めた者との対話を支えてくれ。
又しても此の部屋に新鮮な冬の匂いは鼻腔を掠めた。影よ小さな冬は君の何処かに静かに隠れている筈だ。クリーム色にきれいに塗られたテーブルの上に、影よ君はその小さな冬を既に放して仕舞った。
何時の間にか小さな冬は此のテーブルを四方無尽に飛び跳ね、やがてベートーヴェンのアレグロ楽章になるのかも知れぬ。
ピアノの前に両手を大きく広げ考え込んではいるけれども、彼の生きもの達への音楽は鳴り止まぬ。
僕は今その生きもの達の懐に溶け込む。